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平成の虚無僧一路の日記

乞食坊主に用はない? 

2018年04月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



『一休咄』「一休が、さるお大尽の家に法事で呼ばれた時、はじめ、汚れた雲水の格好で行ったら、「おまえのような乞食坊主の来るところではない」と追い返された。次ぎに、正装して 金襴の袈裟を付けて行ったら、「これはこれは一休殿、お待ち申しておりました。さ、どうぞ奥へ」と。そこで一休「わしは、先ほど墨染めの衣で来たら、『乞食坊主』と追い返された。今、金襴の袈裟をつけて来てみれば、『ささ どうぞ』と。しからば私を呼んだのではなく、この袈裟衣に用があったのでござろう」と、袈裟衣を脱いで 置いて帰ってしまった。という話『一休年譜』には無い。似た話は『年譜』では次ぎのようになっている。応永29年(1422)、一休29歳。先代の言外和尚の33回忌の法要が大徳寺で行われた時、各僧侶はきらびやかな衣に金襴の袈裟を付け着飾る中、一休ひとり、わざと、墨染めの衣にボロ布を縫い合わせた袈裟をつけ、草履という格好で参列した。師の華叟が「どうしてそんな格好をしている」と聞くと、一休は「みなさんの引き立て役です」と答えた。華叟は「わしの跡を継ぐのは、風狂だが、一休だ」と応えた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ニュアンスは違うが、『年譜』のこうした記事から上記の「一休咄」を創った戯作者に感心する。ところで「一休咄」は、一休の“いたずら心”で終わってしまうのだが、この話は、二つの受け止め方がある。一つは「人は着ているもの、見た目で判断してはいけない」ということ。も一つは「見た目で判断されるのだから、TPOに応じた服装をすべきではないか」という反目心も湧き起こる。「正反」含む話だ。これが、一休の(普化禅)の「明暗双打」の真骨頂ではないか?。

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