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平成の虚無僧一路の日記

細川頼之と一休の寺「京都地蔵院」 

2018年03月16日 外部ブログ記事
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一休が15、6歳の時、安国寺を飛び出して 入った寺が「地蔵院」です。私はずっと「地蔵院」を探していたのですが、「ディスカバー(発見)ジャパン」JRのポスターで見つけたのであります。ネットで検索したらありました。 「地蔵院」は、南北朝時代の貞治6年(1367)、室町管領の細川頼之が夢窓国師を開山とし建立。その後、北朝系天皇(崇光・後光厳・後円融)の御願寺に準ぜられて隆盛を極めたが、応仁・文明の乱で焼失。細川頼之の像と墓があるとのこと。「細川頼之」は、なんと三河国(現愛知県岡崎市細川町)の生まれ。その妻が三代将軍足利義満の乳母であり、頼之も義満の後見人として重用されていました。そして、楠木正儀に和睦を勧め、正儀を北朝方に引き入れて摂津、河内の守護に任じたのです。一休の母は、この楠木正儀の孫娘と思われ、一休が「地蔵院」に移ったのも、細川頼之の縁と私は考えています。「細川頼之」と言えば、詩吟をやる人は誰でも知っています。いえ、彼のことは知らなくとも、彼の詩「海南行」は有名です。「人生五十、功無きを愧ず 花木春過ぎて 夏すでに中ばなり」頼之は、幼少の義満の後見人として、南北朝合一に尽力したのですが、義満が長ずるに及び 疎まれて都を追放され、本領の四国に隠遁するのです。その時詠んだ詩が「海南行」です。四国では義堂周信に帰依し、周信の吸江庵に出入りしていました。その吸江庵が、後に宇治川の辺にもありました。そしてその庵の主は、一休の尺八の友“一路”とも言われます。私は、一路の庵の名、吸江庵から「吸江流尺八一路」を 勝手に名乗らせていただいています。昔は50歳で隠居、隠遁の身。私も68で「功無きを愧ず」。陽暮れて道遠し。頼之はその後、許されて政界に復帰します。私に再起はあるのでしょうか。

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