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平成の虚無僧一路の日記

細川頼之と一休 

2018年03月14日 外部ブログ記事
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足利3代将軍「義満」の補佐役だった「細川頼之」のおかげで、「一休」が生まれたと 私は考えています。 1369年、「細川頼之」が 将軍「義満」の補佐役として実権を握った年に、「楠木正勝」の弟「正儀(まさのり)」が北朝に降ります。将軍「義満」は まだ10歳でしたから、「楠木正儀」を迎え入れたのは「細川頼之」の一存だったことでしょう。「正儀」は 和泉・河内の守護に任ぜられますが、1379年、細川頼之の失脚によって、北朝には居ずらくなり、再び南朝に戻り、その後の足取りは不明です。それから12年後、細川頼之は 赦免されて 京都に戻り、幕政に参画しますが、翌1392年に亡くなります。そして この年の10月、南朝の「後亀山天皇」が 北朝の「後小松天皇」に 「三種の神器」を渡して「南北朝の合一」が成ります。さて、その1年半後に「一休」が誕生します。「一休の母は 後小松天皇の寵愛を受けていたが、“南朝の臣の娘”であったため、宮中を追われて田舎で一休(千菊丸)を産んだ」と言われています。「南朝の臣の娘でありながら、後小松天皇の女御となった」。しかし「南朝方であるために追放された」というのは不思議な話です。そこで該当するのが「楠木正儀」です。「正儀」なら、北朝に降り、河内・和泉の守護に任ぜられたのですから、その孫娘あたりを宮中に入れることはできたはずです。ところが、「南北朝合一」が成った後、南朝方の楠木の残党が、「将軍義満」に騙されたと知って、再度 大和で蜂起します。この事件によって、一休の母も南朝方「楠木」の血を引きますので、天皇の命を狙っていると讒言され追放されたと私は考えています。昭和30年頃発見された『橘氏楠木家系図』に、「楠木正儀の子正澄は現在の門真市に土着し、その娘が入内して、後小松天皇の寵を受け、一休を産む」と書かれていたのです。

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