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平成の虚無僧一路の日記

一休の母の手紙 

2018年03月10日 外部ブログ記事
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千葉の館山寺に「一休の母の手紙」というのがあるという噂。
一休の幼名「千菊丸どのへ」となっていて、4歳の時の母の遺言だという。
ところが、千葉県館山市に館山寺など存在しない。原本も所在不明。後世の創り話だろうが、これを創った人は、実によく一休の禅をとらえている。内容は、 釈迦も達磨も自分で悟りを開いたのです。釈迦は教えを 説いたといっても、一字も書き残してしはいないのです。 釈迦や達磨を奴とするほどの修養を積めば、どこぞの寺の 住職にならなくとも、俗人のままでも苦しからず。というもの。
一休は、安国寺を飛び出し、15歳の時、西金寺の謙翁の下に走った。謙翁は大応の法を継ぐ人であったが、そのような肩書きを否定し、“乞食行” ひと筋の托鉢僧であった。その師と仰ぐ謙翁が亡くなると、一休は寺を継ぐ資格も無し、路頭に迷うことになった。絶望からか、20歳の時、瀬田川に身を投げるのである。その時母の声を聞いて生還する。一休が自殺を図った時の「母の手紙」とする方が納得いく。経典は釈迦の没後500年1000年を経て、後世の僧たちによって書かれたものだ。釈迦は一字も残していない。ならば「経典を諳んじたところで、釈迦のように修行をしなければ 糞虫と同じ」と母は言う。「釈迦や達磨も下僕(しもべ)となすほどの修行を積んで、人々の苦悩を救える人になれたら、どこぞの寺の住職なんて肩書きはいらないではないですか。俗人のままだっていいじゃないですか」というのだ。虚無僧はこの一休を師と仰いでいる。経典も必要ない。寺も要らない、肩書きもない、教義もない、すべては己のみ。虚無僧は「僧」であって「僧」でない、俗人のままなのだ。一休の母がいう、衆生を救うことができたら、どこぞの寺の坊さんなんて肩書きはいらない。それが虚無僧なのだ。

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