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エカチェリーナ2世(「玉座の上の娼婦」) 

2018年02月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



ロマノフ秘宝伝説 栄華を支えた女たち「サンクトペテルブルク」

エカチェリーナ2世の文化・教育への取り組み
 ☆ロシアの文化・教育の整備にも力を注ぎ、後世のロシア文学発展の基盤を造る
 ☆ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿の建設にも熱心
 ☆女子貴族の学校を設立し、ヨーロッパ諸国の宮廷・社交界に送り込む貴婦人の養成にも力を入れた
 ☆エカチェリーナ2世は、文筆に勝れ、回想録、書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残している
エカチェリーナ2世の私生活
 ☆生涯に約10人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる愛人を抱えた
 ☆夜ごとに人を変えて寝室をともにしたとする伝説もある
 ☆孫のニコライ1世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評された
エカチェリーナ2世女帝対外政策
 ☆オスマン帝国との露土戦争やポーランド分割などを通じてロシア帝国の領土を大きく拡大した
 (露土戦争に勝利してウクライナやクリミア・ハン国を併合した)
 ☆豪放磊落で派手好みのエカチェリーナ2世は、積極的な外交政策を推進した
 ☆フランス革命には脅威を感じ、晩年には国内を引き締め、自由主義を弾圧した
エカチェリーナ2世の生い立ち&結婚
 ☆神聖ローマ帝国領邦君主の娘として生まれルター派の洗礼を受ける
 ☆フランス人の家庭教師に育てられ、合理的な精神を持った少女に育つ
 ☆エカチェリーナは14歳でロシア皇太子妃候補となる
 ☆皇太子のピョートルと婚約結婚(2人ともドイツ育ち)
 ☆エカチェリーナはロシア語を習得し、ロシア正教にも改宗した
 ☆エカチェリーナは、ロシアの貴族や国民に支持される努力を惜しまなかった
 ☆夫ピョートルは、ドイツ風にこだわり続け、周囲の反感を買い続けた
 ☆夫ピョートルの男性能力の欠陥のため、結婚後も長期間夫婦の関係はなかった
 ☆夫ピョートルは、エリザヴェータ・ヴォロンツを寵愛し、夫婦の関係は破綻した
エカチェリーナ皇后のクーデター
 ☆夫ピョートルは皇帝に即位、エカチェリーナも皇后 となった
 ☆ルター派の信者だったピョートルは、ロシア正教会にも弾圧を加えた
 ☆夫ピョートル3世への怨嗟の声は高まり、エカチェリーナ待望論が巻き起こる
 ☆エカチェリーナは、近衛軍やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行した
 ☆反ピョートル3世派の貴族は、エカチェリーナ側に付き、クーデターは無血で成功
 ☆ピョートル3世は廃位・幽閉され、監視役に暗殺された
エカチェリーナ2世の出産(数々の男性との子供)
 ☆男児パーヴェル・ペトロヴィチ大公を出産
 ☆男児アレクセイを出産
 ☆女児アンナ他3名を出産
エカチェリーナ2世女帝としての治世
 ☆自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興など近代化諸政策に着手した
 ☆生粋のロシア人ないエカチェリーナは貴族の支持を必要とした
 (貴族が反対する大規模な改革は不可能であった)
 ☆一般庶民には、ピョートル3世は待望久しい成人男子の皇帝
 (非業の最期に対する同情と「皇位簒奪者」の女帝に対する反感があった)
 (その死の直後からピョートル3世の僭称者が何人も現れた)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『NHKドキュメンタリー、ロマノフ王朝』、WIKIPEDIA














エカチェリーナ2世(『NHKドキュメンタリー、ロマノフ王朝』テレビ画面より画像引用)

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