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平成の虚無僧一路の日記

八橋検校の出生地「いわき市」と「沖縄」の関係 

2011年04月22日 外部ブログ記事
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「八橋検校」の出生地は、福島県の「平(たいら=現いわき市」
とされている。私は原典を確認していないが、『筝曲大意抄』に
そう書かれているそうな。(ネットで『筝曲大意抄』10,000円で
出ているが買えない)

「いわき市平」の生まれかは判らないが、八橋検校は「岩城、
平(たいら)藩の江戸屋敷に、お抱え楽師として勤めていた時期が
あった。
(私の先祖も「会津藩士」とは云っても、江戸の下屋敷で生まれ
育っているから、「会津人」ではなく「江戸っ子」だったのだ)

いわき平藩、内藤家の三代目藩主「内藤風虎」こと「内藤義泰
(又は義概)」が、なかなかの風流大名だった。この殿様の
庇護のもと、八橋は、筝曲を大成し、一般庶民にも広げた。

その「八橋流」が、沖縄と信州松代に伝えられた。この謎を
解くヒントが見つかった。

なんと、沖縄の「エイサー」は、福島県いわき市に伝わる
「じゃんがら念仏踊り」が原型とか。なぜ?

江戸時代の初め、まだ沖縄が琉球国として独立していた頃、
岩城の出身の浄土宗の僧「袋中(たいちゅう)」上人」が、
明国に渡ろうとして果たせず、琉球に留まり、琉球国王の
信任を得ていたとのこと。その「袋中上人」が、岩城の
芸能を琉球に伝えたという。

沖縄三線の曲に「滝落し すがち」と言う八橋流の筝曲が
使われているとの事。「滝落とし菅垣(すががき)」であろうか。
「滝落とし」という曲は尺八にもある。また「菅垣(すががき)」は
お箏の手だが、尺八曲にも「山谷菅垣」とか「秋田菅垣」とか
さかんに使われている。これも「袋中上人」が伝えたので
あろうか。

とすると「袋中上人」と「八橋検校」とは交流があり、
「袋中」は八橋から、三絃と箏との手ほどきを受けていた
のではないか、と考えたいが、「八橋検校」は、慶長19年
(1614年) - 貞享2年6月12日(1685年7月13 日)の人。

「袋中上人」は、天文12年(1552)−寛永16年(1639)の人。
「袋中」が琉球に渡ったのは、慶長8年(1603年)だから、
八橋はまだ生まれていない。

袋中が八橋から箏、三絃を学んで、沖縄に伝えたとは考え
られないが、逆に、「六段」の原型、雅楽の楽箏や筑紫流の
「六段」が岩城に広まっていて、「袋中」や「八橋」も、
それを知っていたとは考えられないだろうか。


八橋検校は1865(貞享二)年に亡くなり、その墓は
なんと、京都の金戒光明寺にある。ここは、幕末、京都
守護職を勤めた会津藩の本陣があった所。先祖の墓参り
の帰り、塔頭のひとつ「常光院」前に、琴柱を模した碑が
あるのを、いつも目にしていた。

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