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平成の虚無僧一路の日記

「山室」の先祖は 高遠?千葉? 

2011年04月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



震災で、仕事が無くなり 暇になったので、この際、
先祖の事を 調べ、書き残すことにした。

まずは、母方の「山室家」系図だ。「山室の祖は、
信州高遠から会津に来た」といい伝えられていた。
高遠(たかとお)は“ 桜 ”の名所として有名だ。
「山室川」という川もあるらしい。一度行って
みたいのだが、例年 「大渋滞で、車ではとても
行けない」という。今年はどうだろう。自粛ムードで
観光客も少ないのだろうか。

会津藩祖・保科正之は、徳川2代将軍秀忠が、お女中に手をつけて
生ませた子で、正室「お江」の嫉妬を怖れて、高遠の保科家に
匿われて成長した。「お江」が亡くなり、3代将軍・家光の代に
なってから、「兄弟」の対面をし、「弟ならば、東北の備えに」
と会津藩主に大抜擢された。会津は、山形米沢の上杉、仙台の
伊達に対抗するため、徳川親藩として築かれた新興の藩だった。

高遠の保科家は、わずか2万石の小藩だから 家臣は わずか
150人ほど。それがイッキに 会津23万石になったのだから、
3,000人もの家臣を募集した。

私の父方の「牧原」は 紀州徳川家から移籍し、500石取りにまで
出世した。ところが、母方の「山室」は「信州高遠から」と
伝えられながら、なぜか「外様」扱いで、屋敷は「郭外(外堀の外)」。
禄高は100石に抑えられた。

それが、長年の疑問だったのだが、ネットの力はすごい。
「山室」で検索すると、千葉の下総、成田飛行場の南東に
「飯櫃(いびつ)城」があり、山室氏の居城だったことが
わかった。しかも、なんと、小田原北条氏が滅びて、家康が
関東に入封してきた時、家康の命で、保科正光がこの城を攻め、
山室氏を追い出して、しばらくは、保科氏が領有していたのだ。
保科氏は関が原の後、また信州高遠の旧領に復している。

つまり、山室氏は千葉の豪族で、保科氏に攻められて 敗れたが、
その一族の一人が保科家に仕えて、高遠に移り、さらに会津へと
移り住んだものと考えられる。山室氏は、保科氏に滅ぼされた
敵方であるため、「外様」の扱いを受けていたのだ。

偶然か、私の母の二番目の伯父は、千葉大医学部を出て、千葉の
国立療養所の医師を務めていた。私は、中学、高校の頃、千葉の
伯父の家にも、度々遊びに行って、尺八を習ったのだ。

全国の「山室」姓の方、先祖について 教えていただきたい。

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