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平成の虚無僧一路の日記

文化8年から明治8年までの記録 

2011年04月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



最近、さっぱり仕事が無くなった。それで閑になったので
母方の曽々祖父が書き残した『私記』を、紐解いてみた。

曽々祖父は文化8年(1811)の生まれ。それから明治8年(1876)
まで、65年の回想録だ。
会津藩は ロシアの侵略に備えて樺太警備につき、続いて、
ペリー来航に備えて 房総・三浦の警備。そして京都守護職。
あげくのはての戊辰戦争。その果て、下北半島へ移住して、
不毛の地で2年間 辛酸を舐めた。

曽々祖父は11歳で父を失い、伯父に育てられる。妻にも先立たれ、
二人の息子も戊辰戦争で失う。60歳で下北半島への移住だった。

これ以上の悲しみは無いと思うのだが、驚くのは「天災、地震、
水害、火事の多さである。毎年のように災害に見舞われている。
安政2年(1855)の大地震などは「煙草を一服吸うき間くらい、
揺れが長かった。死者10万4千人」と書いて
いる。(ネットで調べたら「1万4千人」。誇張か?)

会津藩は、江戸湾にお台場を築いていた。「建物が崩れ、
助け出したくとも大砲が邪魔して助け出せず、やがて火が出て、
中の者は多く焼け死んだ」とある。この年は、大きな地震
だけで3回。余震は300回に及んだという。

戊辰戦争で家を焼かれ、廃墟の中から ようやく復興した明治21年、
磐梯山の大爆発があった。天はどうして こうまでも無慈悲なのか。

今の東北地方の震災に思いを合わせる。東北人は苦労ばかり
してきた。東北はホントに貧しかった。藁葺き屋根に土間での
農作業。会津人は、私も父も祖父も、冬でも、家では靴下を
履かない。下北での苦労が4代の子孫まで染み付いているのだ。

それが、下北半島の六ヶ所村に行った時、ガイドさんが
「ここは、日本一豊かな村です」と紹介してくれた。
原子力の施設のおかげで、各戸、水洗トイレに冷暖房完備
だという。福島原発の惨事は、幸福の高い代償だったか。

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