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平成の虚無僧一路の日記

宇治と三十三間堂と虚無僧 

2017年10月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



狩野永徳が描いたという『洛外名所遊楽図』には宇治平等院に、『上杉本、洛中洛外図』には、三十三間堂に「四人組みの薦僧」が描かれている。なぜ宇治と三十三間堂に「虚無僧」が居るのか。なんらかの縁(いわく)があって、狩野永徳はそこに描いたのであろうか。江戸時代に入って1684年に書かれた黒川道祐の『よう州府志』には「妙安寺、蓮華王院(三十三間堂)の南に在り。薦僧の本寺なり」として、「近世異僧有り朗庵と号す。元宇治の吸江庵に住み、一休と親しく、尺八を吹くを好む。諸方を経歴し薦の上に座して足れりと為す。故に『薦僧』、あるいは『虚無僧』と謂う」というようなことが書かれているのだ。(よう州の「よう」は「擁」の手偏が無い字。京都のこと)これによれば、宇治と三十三間堂の双方とも虚無僧に関係がある。ところが、残念。三十三間堂近くに虚無僧寺が建てられたのは江戸時代になって1650年頃。『上杉本洛中洛外図』が描かれたのは、それから80年以上も前。明暗寺と三十三間堂との間になんらかの関係があって、80年後にここに明暗寺が建てられたのか。ところで、この「よう州府志」には、疑問点が多い。「明暗寺」が『妙安寺』となっている。三十三間堂の正式名は「蓮華王院」だが、実はその東にある「妙法院門跡」のお堂である。そして虚無僧寺の明暗寺は、京都所司代板倉重昌の計らいで、妙法院の一角を借りて建てられた。妙法院内にあったから当所は「妙安寺」だったのかとも考えられる。明暗寺は「三十三間堂の南」という。また、朗庵は「普化振鈴の作略を慕い、普化道者と号す、というがしかし、“風穴”ではないか」などと書いてある。黒川道祐は「普化」のことを知らず、「風穴延沼」だろうと、余計な訂正をしているのだ。

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