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平成の虚無僧一路の日記

二人の幻庵 

2017年10月12日 外部ブログ記事
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ネットで「毛利輝元が、関が原の後隠居し、「幻庵宗瑞」と号したと知ってビックリ。「幻庵」といえば、北条早雲の第三子で、北条五代にわたって生きた                                       「北条幻庵」。「宗瑞」は、北条早雲の法号。「宗」の字は大徳寺派の名。北条早雲の菩提寺「早雲寺」の開基は大徳寺から招いている。毛利元就がなぜ、北条早雲の「宗瑞」と、その子の北条幻庵の号を付けたのか。偶然ではないような気がする。ちなみに生歿年は北条早雲宗瑞 1432 −  1519年歿北条長綱幻庵 1500年頃?−1589毛利幻庵宗瑞 1553 −  1625  毛利輝元にとって北条早雲は 100年も前の人。北条幻庵は半世紀ほど前。接点はないようだ。大徳寺で調べてみると、大徳寺の塔頭(たっちゅう=子院)のひとつ黄梅院が毛利氏の菩提寺となっていた。黄梅院は、信長の父信秀が開基。信長は最初ここにを密葬された。秀吉の死後、小早川隆景が改築し、毛利家の菩提寺となった。しかし、織田信秀・小早川隆景・毛利元就・蒲生氏郷の墓はあるが、輝元の墓は無い。秀吉の小田原北条攻めの際、毛利輝元は京都の守護に当たっていたから、直接は戦いには参加していない。はてさて、毛利輝元と北条氏の秘密の接点、どなたかご存知の方教えてたもれ、と以前書いたところ、お二人から回答いただいた。
一人は「全く関係ありません。単なる偶然の一致」。もう一人は
「関ケ原で領地を減封され、徳川への恨みから、北条氏に思いを寄せたのでは」と。

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