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イスラエル観光して(中東戦争を学ぶ) 

2017年06月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



中東戦争(Arab?Israeli conflict)

ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家との間での戦争である
1948年から1973年までの間に大規模な戦争が4度起こっている
第一次から第四次に分類されている
 ☆アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに武器供給
 ☆ソ連がアラブ側に対して支援や武器供給を行っている
イスラエルとアラブ諸国は犬猿の仲
 ☆イスラエル人は、国交のあるエジプトとヨルダンのみしか入国できない
 ☆パスポートにイスラエルの入国スタンプがあるだけでアラブ諸国では入国拒否される
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『WKIPEDIA』










中東戦争(一部ネットより画像引用)

アラブとユダヤの対立要因
パレスチナは、長い間イスラーム国家の支配下に置かれていた
パレスチナでは、居住する住民(イスラム・ユダヤ・キリスト教徒)は共存関係を維持してきた
 ☆人種的にはすべてアラビア人
ヨーロッパで、パレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、ユダヤ人によるパレスチナ入植がはじまった
当時のパレスチナを支配していたのはオスマン帝国であり入植を規制することはなかった
パレスチナに入植するユダヤ人の数は徐々に増え始めた

第一次世界大戦時の状況
イギリスは、諸民族の混在する中東地域に目を付け様々な協定を結んだ
メッカ太守のアラブ人と中東地域のアラブ人の独立支持を約束した
3国(イギリス、フランス、ロシア)秘密協定
 ☆オスマン領中東地域へイギリスの分割が決定された
イギリスは、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を表明した
イギリスのこれらの協定は、中東戦争の大きな原因のひとつとなった

第一次世界大戦で、オスマン帝国敗退
帝国が支配していたパレスチナは、イギリスの委任統治領として植民地化された
イギリスの委任統治領となった後もユダヤ人の移民は増加し続けた
入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まっていった
アラブ人は、イギリスに対して入植の制限を求めた
イギリスはアラブとユダヤの板挟みに合うこととなる
 ☆パレスチナでは、ユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する

第二次世界大戦期
ナチス・ドイツの反ユダヤ政策により、シオニズム運動はより盛んになった
 ☆ユダヤ人難民の相当数が「約束の地」パレスチナを目指す
ユダヤ人の入植は急増し、アラブ人との摩擦はますます強くなった
両派による武力衝突が頻発する中、イギリスはパレスチナの委任統治を終了させる意向を表明
国連は、パレスチナを分割しアラブとユダヤの二国家を建設する決議し採択
 ☆イギリスによる委任統治が終了

国連による分割案(ユダヤ人に有利)
ユダヤ人国家はパレスチナの56%、アラブ人国家はパレスチナの43%占めた
ユダヤ人国家は、テルアビブなどの大都市およびその間の肥沃な平野を手に入れた
アラブ国家とされた地域は、ユダヤ人1%に対しアラブ人人口は99%占めていた
ユダヤ人側はこの決議を歓迎し受け入れを表明した
アラブ人側はこの国連決議を不合理なものとして反発し反対を表明した
イギリスによるパレスチナ統治終了の日
 ☆ユダヤ人はイスラエル建国を宣言(イスラエル独立宣言)
分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻
第一次中東戦争が勃発・多くのパレスチナ難民も発生

パレスチナ人とは?
パレスチナ地方に居住するアラブ人を独立した民族として捉えた場合の呼称
イスラエルは、パレスチナ人を指して「アラブ人」とする
民族的に「アラブ人」と同一であっても、ユダヤ教徒なら「ユダヤ人」と呼ばれる

第一次中東戦争とその結果
イスラエルが独立を宣言で、パレスチナの内戦は国家間の戦争へ発展
イスラエル独立に反対する周辺アラブ5ケ国
イスラエル優位で終了し、双方国連の停戦勧告を受け入れた
国連調停での戦争結果
 ☆イスラエルは独立を確保し、領土も国連による分割決議以上の範囲が確保された
 ☆聖都であるエルサレムは西側の新市街地区しか確保することができず
 ☆エルサレム旧市街(嘆きの壁を含)は、トランスヨルダンの手にわたる
 ☆アラブ側は、イスラエルの建国を許し、わずかな領土しか確保することができなかった
アラブ側は、イスラエルに対する敵意を募らせた
21世紀に入っても続く対立の原型はこの時期に形作られた

第二次中東戦争の原因
エジプトで、イギリス・アメリカによるアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になる
 ☆エジプト大統領ナセルは、対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表
イギリス・フランス両国はこれに反発
 ☆両国は、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動

第二次中東戦争の経緯
戦争は、イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された
エジプト軍は総崩れとなり、シナイ半島は、イスラエル軍が占領することとなった
この戦争は、ソ連はもちろんアメリカも含めて国際的な非難が沸き起こる
国連の停戦決議を受け入れることとなる(PKOの起源)
イスラエルは、優れた装備の軍により、エジプトを圧倒

第二次中東戦争の結果
エジプトは、敗北したが、外交によって戦争目的であるスエズ運河国有化を果たすことに成功
アラブ世界における威信を大幅に上げ、ナセルはアラブ世界の盟主としての地位を獲得した
この戦争で、イギリスの凋落は決定的なものとなり、この地域から完全に手を引くこととなった

第三次中東戦争の原因
ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まる
イスラエルは、エジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった

第三次中東戦争の経過
アラブ側は410機の軍用航空機を破壊され、制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北
イスラエルは、ヨルダンのヨルダン川西岸地区・エジプトのガザ地区とシナイ半島・シリアのゴラン高原を占領
ユダヤ教の聖地を含む東エルサレムを占領
開戦わずか6日で勝敗が決したため「六日戦争」とも呼ばれる
イスラエルがその高い軍事能力を存分に発揮し、周辺各国全てを相手取って完勝した
イスラエルは、旧パレスチナ地区のすべてを支配下に置き、シナイ半島とゴラン高原をも入手
戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大した

第三次中東戦争の結果(イスラエル側)
国連での国際的に公認されたイスラエルの領土は建国当初の領域のみとされた
ユダヤ教徒の悲願であった嘆きの壁を含むエルサレム旧市街の支配権もイスラエルが獲得
エルサレムは、すべてイスラエル領となったが、国際社会からは認められていない
この劇的な勝利により、イスラエルは中東紛争における圧倒的な優勢を獲得した
優勢は現代にいたるまで揺らいでいなく、占領地域を確保したまま

第三次中東戦争の結果(アラブ側)
全くの完敗であり、パレスチナからアラブ側の領土は消滅した
ナセルの威信はこの戦争によって決定的に低下
戦争終結後アラブ首脳会議において、アラブ連盟
 ☆イスラエルに対し「和平せず、交渉せず、承認せず」という原則を打ち出した
アラブ側国家の支配のもとのガザ地区、ゴラン高原、シナイ半島がイスラエルの手に落ちた
第一次中東戦争を上回る多数のパレスチナ難民が発生した

第四次中東戦争経緯と結果
エジプトが前戦争での失地回復のため、シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけた
イスラエル軍による反撃が開始された
大量の増援を受けたイスラエル軍は、ゴラン高原を再占領することに成功した
シナイ半島方面においてもスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した
この戦争においては、両者ともに痛み分けともいえる結果となった
エジプトは、初戦において大勝利したことで、エジプト大統領サダトの名声は非常に高まった。

第一の中東戦争終結要因
サダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換
 ☆単独でキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に調印した
サダト氏は、ノーベル平和賞を受賞したが、イスラム復興主義者により暗殺された
親イスラエル路線は、後継者ムバーラク首相に継続された
革命後に就任したムルシー大統領はイスラム主義系の大統領で、イスラエルとは一定の距離を置く

第二の中東戦争終結要因
イランで起きたイスラム革命
 ☆イスラム原理主義による国政を目指す勢力が、国王を国外追放して政権を握ってしまった
 ☆アラブ諸国は革命が自国に飛び火することを恐れ、イランに対する締め付けを図った
イラク・イラン戦争(アラブを代表して国境を接するイラクがイランと戦争)
 ☆アラブ各国をはじめ、米ソもイラクを支援した
イスラエルの敵対勢力は、アラブ国家から非政府運動組織であるパレスチナ解放機構(PLO)へと移行
 ☆正規軍同士の戦いから対ゲリラ・テロ戦争へと変化していった
PLOは、アラファトが議長になると、パレスチナ自治政府としての地位を確立した
イラクはクウェートに侵攻、アメリカとの湾岸戦争に突入した
アラブ諸国は、アメリカ主導の多国籍軍に参加し、アラブ同士が対立する結果となった
PLOは成り行きからイラクを支持したためにアラブ諸国からの支援を打ち切られ、苦境に立たされた

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