メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

尺八と横笛吹きの独り言

鈴鹿馬子唄・・・・三重県民謡 

2017年04月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●鈴鹿馬子唄・・・・三重県民謡・滋賀県民謡(三重と滋賀にまたがっている) 
鈴鹿山脈は三重・滋賀県境に横たわります。東海道が通る鈴鹿峠を越える馬子達が歌ったのが《鈴鹿馬子唄》です。
もともと各地の馬子唄と同様、博労達の「夜曳き唄」でした。東海道を往来する駄賃付けの馬子が歌ったものと思われます。この馬子唄は、日本の馬子唄としては南限といわれています。
鈴鹿馬子唄は一度、琴古譜面でマイ譜面を作ったことがあるが、再度都山譜で挑戦した。
こんど、我が会の女性が唄いたいとのことで譜面を作ってみた。
音源はNHK音源男性(8寸)とyoutubeでの上田祐子さん(5寸)の音源を聞きながら作ってみた。竹ものの採譜はむずかしい・・・・都山譜であり、琴古譜のような記述もある。
要するにマイ譜面である。
AとBはホボ同じであるが、とくに●と△の箇所は同じであるが他は若干言い回しが異なっている。


(ハイ ハイ)
○坂は照る照る 鈴鹿は曇る(ハイ ハイ)
あいの土山 エー雨が降る (ハイ ハイ)

《鈴鹿馬子唄》が文字として登場するのは、宝永元年(1704)大木扇徳が刊行した「落葉集」といい、「馬士踊」として歌詞が掲載されているといいます。

また、近松門左衛門の「丹波与作待夜小室節」、さらにこれが「恋女 房染分手綱」という外題の狂言となって、「重の井の子別れ」の場面で《鈴鹿馬子唄》が登場しているといいます。

こうしたことから各地の馬子唄の源流は、長野の《小室節》だといわれます。《小室節》は江戸で流行していますので、江戸から東海道を通って歌われるようになったのかも知れません。

やがて時代も鉄道時代となって、鈴鹿峠を越える旅人もいなくなり、この唄も歌われなくなりますが、関町で茶屋を営んでいた神谷はつよの節を、秋田生まれで名古屋在住の多田夏代が覚え、持ち唄として全国に広めた。

現在は三重県の、重要伝統的建造物群保存地区として知られる関宿を持つ関町(鈴鹿郡関町)と、峠を越えた滋賀県の、「あいの土山」で知られた甲賀郡土山町で盛んに歌われています。土山では、鈴鹿馬子唄全国コンクールも行われている。  
http://senshoan.main.jp/minyou/suzuka-word.htm
            
 
この汚い下書き譜面は、鈴鹿馬子唄を採譜したときの下書きだ。
音源を聞きながら・・・・数時間格闘、二つの音源を聞きながら修正また修正・・・・
 もうこうなったらマズできればいい。修正することはこれから以後も続きます。どこかで妥協しないと終わりませぬ・・・・

●「あいの土山」のこと
土山を称した言葉に「あいの土山」があります。「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と鈴鹿馬子唄に唄われるこの言葉にはさまざまな解釈があります。東海道のなかで箱根に次ぐ難所とされた鈴鹿峠は、特に伊勢側からの上りが急峻で、旅人たちは苦労したようです。そこで、人や荷物を運搬する馬子が重宝され、活躍していくようになりました。鈴鹿馬子唄はそんな馬子たちの労働歌として生まれ、後に人形浄瑠璃などの演目の中で登場し、広く知られることとなりました。
 「あいの土山」の「あいの」には諸説あり、いまだに定説がないが、土山で伝えられる

●「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」の意味。
相の土山説を転載した。
 鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂(坂下宿)は晴れ、鈴鹿(鈴鹿峠)は曇り、相対する土山(土山宿)は雨が降るとする説で、鈴鹿峠を境に伊勢側と近江側では天候ががらりと違うという説だ。
http://www.city.koka.lg.jp/6984.htmより抜粋
地図で見る鈴鹿峠
http://fumiki.travel.coocan.jp/kaido/toukaido1.html

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ