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仏教(増上寺、寛永寺) 

2017年04月05日 外部ブログ記事
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徳川家の菩提寺となった江戸の2大寺院

将軍の菩提寺として発展した両寺院は、現在も東京を代表する名刹です
江戸城の鬼門(北東)と裏鬼門(南西)置かた2つの菩提寺(寛永寺と増上寺)
将軍家光は、天海に深く帰依した
 ☆家光は、自分の葬儀は、寛永寺で葬儀で行い、日光に埋葬するよう遺言した
 ☆これが前例となり、寛永寺には4代、5代の霊廟が建てられた
菩提寺としての地位を奪われた増上寺が幕府に抗議
 ☆以後は両寺のバランスをとるように歴代将軍の霊廟が置かれるようになる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『仏教(成美堂出版)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています




仏教(仏教(成美堂出版)記事より画像引用)

増上寺(北東)
将軍家菩提寺として先に創建された
前身は光明寺という真言宗の寺院でした
その後浄土宗寺院となり、寺号も増上寺と改められた
江戸に入った徳川家康は、千代田区にあった増上寺を菩提寺と定める
その後、徳川家康により、現在の寺地に増上寺を移転させた
幕府の援助で伽藍の大造営も行われて

寛永寺(南西)
天海を開山として建てられた天台寺院
天海は、川越の東叡山喜多院の住持であった
幕府から上野台地を与えられ、寛永寺の創建に着手
 ☆東叡山の屋号をここに移す(東叡山とは東の比叡山の意味)
藤堂高虎が、東照宮を建てたのを皮切りに、諸大名が競って坊舎を建立
18世紀初頭には子院が36坊に及び寺領も約1万石↑にまで拡大した

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