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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧曼荼羅 No.7  

2017年01月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「邦楽ジャーナル」11月号
?一休こそ虚無僧の元祖か
?虚無僧の源は「薦(こも)を腰に付けて諸国を回遊していた
薦僧(こもそう)」でした。その薦僧と中国唐代の普化(ふけ)を
結びつけたのは誰かが虚無僧の最大の謎です。      
?普化は『臨済録』(1120年)に登場してくる奇僧ですが、中国では
普化の後継者はおらず、普化宗などは存在しませんでした。日本でも
『臨済録』がはいってきたのは鎌倉時代の末ですから、それ以前に
普化を知っている人はいなかったはずです。その『臨済録』を読んで
普化に注目したのが一休(1394-1481)でした。そう、あのトンチで
有名な一休さんです。
?
一休が普化僧(ふけそう」に?
? 江戸時代の初めに刊行された『一休関東咄(ルビ:はなし)』に、
「一休が関東下向の折、普化僧(こもそう)の尺八を吹きて通らせ給う」
という話があります。「普化僧」に「こもそう」とルビがふられています。
?
 一休は室町時代の臨済宗大徳寺派の僧ですが、既存の教団を批判し、
風狂に生きた禅僧でした。その実相を探る史料は『一休和尚年譜』と『
狂雲集』です。今日「一休さん」として親しまれている逸話のすべては、
江戸時代以降に創られたものです。一休が関東に赴いたこともありませんし、
「水飴」の話、「屏風の虎」「この橋渡るべからず」などの話は、
すべて後世の創り話です。しかしこれらの話は、一休を知り尽くした上での
創作なのです。
?
 では「一休が普化僧となって」とはいったい何を意味しているのでしょう。
一休ゆかりの寺、京田辺市の酬恩庵一休寺と大徳寺芳春院には
「一休愛用の尺八」というのが遺されています。1尺1寸(33cm)ほどの短い
「一節切(ひとよぎり)」と呼ばれる尺八です。その真贋(しんがん)は不明ですが、
一休は尺八に関する詩をいくつか作っていますので、尺八大好き人間
だったことは間違いありません。そしてまた「普化」についての詩を
3編作っています。そのひとつ「普化を賛す」と題して
?
徳山臨済同行をいかん 
街市の瘋癲(ふうてん)群衆驚く    
坐脱立亡(りゅうぼう)敗闕(はいけつ)多し、
和鳴隠隠たり宝鈴の声
?
そう、普化は瘋癲(ふうてん)と呼ばれていました。
「フーテンの寅さん」です。その「瘋癲の普化には名僧の徳山も
臨済もかなわない」と一休はいうのです。
?
大徳寺の住持に
一休がいかに普化を賛美し、尺八を愛したかは、『狂雲集』に記載
された次の法語からわかります。81歳で大徳寺の住持(=住職)に就任
した時の法語では
 「明頭来明頭打 暗頭来暗頭打
  四方八面来旋風打 虚空来連架打」 (以下略)
と、普化の偈(げ)を借用しているのです。?????
続いて退任の法語が
 「酒に淫し色に淫し亦詩に淫す (中略)
???? 尺八を弄(ろう)して云う 一枝の尺八知音少なし」 と。
退任の挨拶が「尺八のすばらしさを知る者はおるまい」と
いうのですから、これを聞いた人たちは、なんのこっちゃ、
ちんぷんかんぷんだったことでしょう。
一休の晩年は応仁の乱で荒廃した時代でした。多くの知識人が
都を離れ一休のもとに集まって来ました。そして一休の言行から
普化を知り、尺八を吹く人も増えたのでした。その一人が朗庵、
そして一路でした。この続きは次号で。
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