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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧曼荼羅 No.6 

2017年01月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「邦楽ジャーナル」 10月号 掲載
虚無僧曼荼羅 No.6?
?虚無僧の別名は?
?その1 薦 僧(こもそう)
?江戸時代の初めまで、虚無僧は「薦僧(こもそう)」と呼ばれていました。
野宿するための薦(こも)を腰に付けていたからです。「薦僧」は
浪人者のなれの果てとはいえ、コモむしろを背負った「薦僧」では
情けない。それで「虚妄僧(こもうそう)」とか「虚無僧」という漢字を
当てるようになったのでしょう。
?その2 普化僧(ふけそうう)
?そしてさらに、中国唐代の奇僧?普化(ふけ)を祖とする普化宗の僧
「普化僧(ふけそう)」とも言われました。「普化僧は尺八吹けそう」
なんちゃって。
ところが虚無僧の祖普化は尺八を吹けませんでした。尺八は吹かず、
鐸(たく)=鈴)を振って「明頭来明頭打(みょうとうらいみょうとうだ)、
暗頭来暗頭打(あんとうらいあんとうだ)」と唱えながら托鉢をして
いたのです。普化の名は、臨済宗の祖「臨済義玄(?〜866)」の語録
『臨済録』に登場してきます。臨済の教義を補う話として、普化の行状が
語られます。たとえば、「AとBいずれが優れているか」といった臨済の
問いかけに、テーブルをひっくり返したという話。乱暴者のイメージですが、
これは「比較をするな」という教えかと私は理解しています。
また、師の頂相(ちょうそう=肖像)を描くという課題では、普化は
トンボ返りをして出ていってしまった。
(トンズラすることを「フケやがったな」と云いますが、「フケ」とは
この「普化」のことではないでしょうか)。
最後のきわめつけは、自ら棺桶にはいって昇天したという話です。
棺桶の蓋を開けたら、中は空っぽ。一条の風が舞い上がり、虚空から
鐸(=鈴)の妙音が聞こえたというのです。これは一切の煩悩から
解脱(げだつ)した悟りの境地を意味します。ですから、普化は実在の
人物ではなく、禅の教義の一端を示すための架空の人物とも考えられます。
普化に後継者はおりませんので、普化宗などは存在しなかったのですが、
千年の後、日本で突如生まれます。江戸時代の末、1795年に出版された
『虚鐸(きょたく)伝記国字解』という書には、「張伯という人が、
普化が振る鐸の音を尺八に模して吹いた。それで尺八のことを虚鐸という。
その数百年後、鎌倉時代。法燈国師覚心が中国に渡り、張伯から16代目の
張参から虚鐸(尺八)を習い、四人の尺八居士を連れて帰国した」と
書かれています。ところが正史では、法燈国師が中国で普化宗を学んだとか、
尺八を吹いたなどという記録は全くありません。張伯も張参も来日した四人も
尺八居士であって僧侶ではないのですから、普化宗が仏教の一宗には
到底成りえません。全くおかしな話ですが、これが虚無僧の世界では
正しい伝承として信じられ、ネットでもまことしやかに語られています。
?
ではなぜこのような伝承が創作されたのでしょうか。
ひとつには、虚無僧は幕府から不審の目で見られており、「宗旨を明らかに
せよ」と言われてでっち上げられたと考えられます。
また、京都の明暗寺は、関東の一月寺、鈴法寺に対抗して虚無僧の本山を
名乗るために、由緒正しき?縁起を創作したとも。しかし明暗寺は、寺としての
認証を得るために、法燈国師開山の興国寺(紀州由良)に無理強いして
その末寺となります。興国時は臨済宗の寺ですからその末寺となった明暗寺は
普化宗を大ぴらには名乗ることができなくなってしまいました。
?
というわけで、普化も法燈国師も虚無僧とは関係なかったのですが、
なぜこの二人が虚無僧の祖とされたのか、それが問題です。虚無僧の祖と仰ぐに
ふさわしいそれなりの理由があったはずです。薦(こも)を背負って尺八を
吹いていた薦僧(こもそう)に普化と法燈国師を紹介したのが、なんとあの
「とんち一休」さんだったと私は考えています。この続きは次号で。
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