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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧曼荼羅 No.5 9月号 

2017年01月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「邦楽ジャーナル」9月号?掲載
虚無僧曼荼羅 No.5?
?明暗こもごもの虚無僧
?「一月寺仏と遠き人ばかり」(1784年谷素外)。
一月寺は虚無僧寺を統括する本寺の一つです。その
「一月寺の虚無僧は、仏とはほど遠い連中だ」というのです。
それが虚無僧に対する世間の目でした。
「慶長の掟書」を楯に米銭を強請する虚無僧は村人の大迷惑でした。
それで「虚無僧の入国を禁止する」という藩もあり、また
「領内での托鉢は禁止する」とか「虚無僧に宿を貸しては
ならぬ」といったお触れも頻繁に出されています。
江戸時代後半になると、村々では「一定の米銭を差し出すので、
托鉢はお断わり」という「留場(とめば)証文」を虚無僧寺と
交わすようになります。これで虚無僧たちは托鉢しなくても
食うに困らなくなり、“飲む・打つ・買う三昧”の生活に堕落
したのでした。
?虚無僧八態
?大正、昭和にかけて虚無僧関係の史料の収集とその解明に没頭した
中塚竹禅(1887-1944)は、「慶長の掟書」を偽書と断じ、
「虚無僧と普化は関係なかった。法燈国師は普化宗の日本開祖に非ず」と
言明するに至りました。
その中塚竹禅が虚無僧を8パターンに分類しています。
それに私なりに補足してみました。
1 普化禅の求道者(極少数)
? 現代では、古典尺八愛好家の一部。そして海外の尺八家の多くは、
 古典尺八を普化禅の曲と信じ実践している。
2 主家に帰参復職を希う者(殆ど大部分)
 江戸時代初期、浪人が一時の糊口しのぎに虚無僧となった。
 虚無僧は再仕官までの仮の宿。
3 転職者(尺八指南に転じたる者)
 虚無僧寺とは別に「吹合所」という尺八教授所が全国各地にあり、
 尺八を教える人がいた。元旗本や侍であり、その系統の尺八名人たちが、
 明治になって尺八を楽器として興隆させた。
4 治外法権を操縦する者(役僧及び寺詰虚無僧)
 正規の寺で剃髪、得度授戒を受けた住職はごく少数。多くは
 僧侶の資格を持たず、有髪で看主(手)、院代、役僧などと呼ばれていた。
5 同を善用する者(行脚虚無僧) 
 まともな虚無僧もおり、虚無僧寺の縄張りを回って、
 偽虚無僧の排除や、村人とのトラブルの仲裁に当たった。
6 同を悪用する者(不逞虚無僧)
 幕末になると、前科者や無宿人が虚無僧寺に入り込み、さらに
 本則を持たない偽(にせ)虚無僧も横行し、村人を苦しめた。
7 道楽虚無僧(武家隠居百姓町人の本則門弟)
 旗本や侍、裕福な百姓、町人で、隠居後に尺八を習い、
 虚無僧寺に金を納めて本則を受け、虚無僧体験を喜びとした。
 幕府は虚無僧寺の資金源を断つために、「慶長の掟書」を
 逆手にとって、侍以外の者に本則を出すことをしばしば禁じている。
8 臨時虚無僧 (血刀下げて駆け込んできた者)
 人を殺(あや)めて敵討(かたきうち)から逃れるため、また
 敵(かたき)を探すため脱藩して虚無僧になった例はいくつか
 あった。現代では皆無。
?
伊達虚無僧と女虚無僧
?以上の他に、浮世絵では女物の着物を着た派手な虚無僧や女虚無僧の
絵がいくつかあります。女性が顔を隠して旅をするには虚無僧姿は
もってこいですから、小説でも女虚無僧がしばしば登場します。
その影響でしょうか、仙石騒動が起きた6年前の天保元年(1830)に
行われた一月寺の開帳では、華美な装束の虚無僧数十名の他に、
供を連れた某殿様をはじめ、旗本、御家人、さらに吉原の芸妓までもが
派手な虚無僧姿で参加したとあります。そして幕府に咎められ、
開帳中止命令が出されています。一方で嫌われ、他方で憧れられる。
虚無僧はまさに明暗錯綜した魔訶不思議な存在なのです。
 
?

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