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平成の虚無僧一路の日記

「邦楽ジャーナル」7月号 掲載「虚無僧曼荼羅」第3回 

2017年01月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「邦楽ジャーナル」H28年7月号 寄稿記事です
『虚無僧曼荼羅』No.3
 偽書「慶長の掟書」
ネットを見ると「虚無僧は公儀隠密だった」「江戸幕府は
普化宗を保護するために、虚無僧以外の者が尺八を吹くことを
禁じた」などというようなことが書かれています。その根拠は
「慶長の掟書(ルビ:おきてがき)」と呼ばれる文書です。
「慶長の掟書」は、原本は存在せず、写しが20以上もあって、
どれ一つとして同じものが無いという代物です。お題目に
「家康公関東入国の砌(みぎり)仰せられた掟(おきて)」と
書かれたものや、「定」というのもあります。家康の関東入国は
天正18年(1590)ですが、末尾の日付は「慶長19年(1614)」に
なっているといういい加減さです。
江戸幕府の公文書は「法度(はっと)、触(ふれ)、覚(おぼえ)、
定(さだめ)」で、「掟おきて)」というのはは「村の掟」のように
特定集団内部の取り決め事です。「慶長の掟書」と類似のものに
「(慶長18年)檀那請合之掟(だんなうけあいのおきて)」というのが
あります。寺院経営に都合の良いことばかり並べ立てたもので、
これも偽書とされています。「慶長の掟」はこれを真似たのでは
ないでしょうか。
?
虚無僧は浪士の隠れ家
「慶長の掟書」の第一条に「虚無僧は勇士浪人一時の隠れ家」とあり、
末尾の条文では「表には僧の形を学び、内心では武門の正道を失わず、
武者修行の宗法と心得る可し」と。そして「武者修行だから日本国内往来の
自由を認める」と結んでいます。つまり「僧の恰好はしているが資格は
武士である」というのです。禅宗の一派とか「普化宗」という言葉は
出てきません。
条文は6項目から21項目のものまであり、順序もバラバラ、文章も異なります。
たとえば「血刀を提げて寺内に駆け込んできた者がいたら、事情を聞いて
保護せよ」という条文があります。このことから「罪を犯しても虚無僧に
なれば許された」というような説がネットで流れています。ところが、
後に幕府から咎められて、「咎人(とがにん)は一切隠し置くべからず、
縄かけ(奉行所へ)差し出す可し」と追加しているものもあります。
そして「お尋ね者や怪しい者を見つけたら捕らえて役所に差し出す可し」と、
警察権が与えられていたかのような条文もあり、虚無僧が公儀隠密だったという
説の根拠になっています。これも後に幕府から「そのようなことを
命じたことはない」と咎められ、消されているものもあります。
後書きで「この掟は延宝年中(1673-1680)、老中堀田加賀守、
太田摂津守、牧野内膳正によって再確認された」と記されているものも
あります。これにより「普化宗が幕府によって正式に承認された」と
言われていますが、延宝年間の老中にこの三人はいませんので、これも
真っ赤な嘘でした。寺社奉行でなく老中としていることは、
虚無僧が正規の僧ではないことを自覚していたとも受け取れます。
その他「虚無僧寺の看主(住職に相当)は千石の武士、一般虚無僧は
百石の武士席と定める」という付則もあり、このような大言壮語は
滑稽にさえ思えます。見方を変えれば、物乞いや辻芸人とは一線を
画したいという浪人者の虚勢でしょうか。???????????????????
?

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