メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

日本の宗教(崇仏・排仏論争) 

2017年01月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



仏教の国教化と民衆への広がり

伝来当初は政策の火種となった仏教
奈良時代には国教化された
仏教布教の国による活動規制が、行基らの民間布教者を生み出した
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『宗教史(成美堂出版)』、WIKIPEDIA
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています








仏教(WIKIPEDIA画像引用)

蘇我・物部両氏の崇仏排仏論争
日本に仏教が伝来したのは、朝鮮半島の百済より仏像・仏具・経典が渡来した538年です
外来の仏を日本古来の神と同じように崇拝すべきか否かの論争が続いた
争点は教理や思想でない
 ☆仏を祀ることが福となるか、古来の神の怒りをかわないか?
崇峻天皇の皇位継承争いで、崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏による武力衝突が起きた
蘇我氏が勝利したのちは崇仏論が主流となった
推古天皇の時代には、聖徳太子が憲法17条を定め、仏教は国教に近い扱いを受けた

菩薩僧・行基の布教と大仏造立
日本が中央集権体制をとると、仏教活動は国の公式行事として保護を受けるようになった
僧侶への統制が強まり、見習い僧尼になるための得度、正式僧尼になるための受戒は国の認可制となる
僧尼名簿への記載が義務づけられ、活動も制約され民間への布教が禁じられた

行基の出現
公式の得度を受けず、民間布教を行う僧が出現した
行基もその一人で、「知識結」とよばれる仏教共同体を組織する
行基は、布教のかたわめ土木などの社会事業に着手し民衆から菩薩と慕われた
国は、行基を人心を騒がす者として長く弾圧した
聖武天皇は、この活動を公認し、大仏造立の現場を行基にまかせ、資材と労働力を確保した
東大寺では、インドの僧を導師に招いて、仏の開眼供養が行われ、仏教国教化のシンボルとなった

南都六宗
公式の僧寺院で中国から伝来した教義の研究を深めた
6つの学派となり南都六宗と呼ばれる
僧がいくつもの宗を同時に学んだり、他の寺に出向いて教えを受けたりするのは自由だった
8世紀になると、寺どうしで学僧を奪い合うなどの確執が生じ、自由な姿勢は失われ排他的なものとなる

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ