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秀吉をも虜にした直江兼続 

2016年10月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



直江兼続(関ヶ原の仕掛人!?)

上杉謙信からの教えを人生の師とする
運命を変えた盟友・石田三成との出会いと関ヶ原の戦い
徳川家康の手紙の返信に「是非に及ばず」の一文に込められた強き想いとは!?
直江兼続は、関ヶ原の戦い後の、絶体絶命で上杉家の大ピンチを救った
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
 ☆番組の画面引用
出典、BS・TBS『高島礼子・日本の古都』


















直江兼続(『高島礼子・日本の古都』番組画面、他ネットより引用)


直江兼続


関ヶ原合戦後の直江兼読
関ヶ原合戦の後、上杉景勝とともに上洛して家康に謝罪する
家康から罪を赦された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許された
徳川家に忠誠を誓い、直江重光に改名する

米沢での直江兼続(重光)
土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れた
米沢城下の最上川上流に、巨石が積まれ、「直江石堤」と呼ばれている
新田開発に努め、表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに開発を進めた
町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた

直江兼続の上杉家への貢献
徳川家との融和を図るため、本多正信次男へ兼続が取り成しを依頼し、上杉家は救われた
松平忠輝の居城高田城築城の際、伊達政宗の指揮の下に、主君上杉景勝とともに天下普請を行なった
大坂の役においても徳川方として参戦し武功を挙げた
上杉景勝は、兼続が病床に臥すと、大いにこれを憂え、医療の最善を尽くさせた

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