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平成の虚無僧一路の日記

光秀謀反 もうひとつの理由 

2011年02月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



意外と盲点だったのが、四国の長宗我部氏と明智光秀との関係である。
ヒントは なんと、坂本龍馬が「先祖は本能寺の変の後、近江坂本から
逃れてきて『坂本』姓を名乗った」という話である。

本能寺の信長を襲った寄せ手の大将は、実は光秀ではなく、光秀の家臣
「斉藤利三」。春日局の父だ。斉藤利三は、秀吉によって捕らえられ
処刑されたが、その子

たしかに、本能寺の変後





明智は土岐氏の一族。土岐氏は四国



光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。

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