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平成の虚無僧一路の日記

長宗我部氏のこと 

2011年02月15日 外部ブログ記事
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「光秀謀反 ひとつの理由」に即、「桜」さんからコメントをいただいた。

「愛媛県には、西日本では規模の大きい神社、通称「椿神社」があります。
ここの神主さんは、長宗我部氏です」と。

ありがとうございます。先日は、家康の長男の名「信康」と「元康」を
取り違えていることを ご指摘いただいたり、びっくりです。

さっそく、愛媛県の「椿神社」をネットで検索してみました。

「椿神社」と言えば、芸能の神「猿田彦命」を祀る三重県鈴鹿市の
「椿大社」が有名で、その末社は全国にありますが、愛媛県松山市の
「椿神社」は、こちらとは 関係が無いようです。

松山市の「椿神社」は、祭神は『伊豫豆比古命・伊豫豆比売命』他二柱で、
正式名は『伊豫豆比古命神社』。通称「椿神社」と呼ばれるのは「津(港)の
脇の神社で『つわき神社』が訛って『つばき神社』となったとか、境内に
椿が自生しているので「椿の神社=椿神社」と呼ばれるようになったとか。

神主さんの出自までは、判りませんでしたが、「長宗我部元親」の嫡流は
秀吉によって滅ぼされたものの、その一族の子孫という方は、現在でも
何人かおられるようです。はい

そして「長宗我部」を調べていて、貴重な史実を発見。

土佐は、室町時代、足利幕府の重臣、細川氏の領国で、夢窓疎石が
ここに禅の修養所として「吸江庵」を建てた。(現在も存続)。そして、
「長宗我部元親の祖は、細川氏から『吸江庵の寺奉行(別当職)』に
任ぜられていた」ことが判明。

「吸江庵は 康永二年(1343)将軍の祈祷所となり、その存在は明国にまで
知れ渡るほど有名なものになった。のち経済的に逼迫したが、細川頼元・頼之
らによって復興され、将軍足利義満は成松名・重富跡を寄進し、経済的基盤を
確立した。その間、長曽我部氏も寺奉行として吸江庵の運営に尽力した」という。

「細川頼之」は、足利三代将軍「義満」の後見人であり、一休とも接点があった。
一休の尺八の友「一路」が棲んだという宇治の草庵の名が「吸江庵」である。
土佐と宇治、双方の「吸江庵」につながりがあるのか、それが私の知りたい
ところだぁぁ。「長宗我部」を探っていけば、それが判るか。

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