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「まだそらを」   

2016年08月25日 ナビトモブログ記事
テーマ:俳句ポスト投稿

 俳句集団「宇宙(そら)」は、2015年9月29日、津軽の地に誕生した。

 今のネット社会を踏まえ、俳句作りの研鑽、活躍の場は、専ら「俳句ポスト365」への投稿による。

 「俳句ポスト365」は、愛媛県の松山市が運営する俳句の投稿サイトである。その選者は、TBSで木曜日放送のプレバトでお馴染みの、当代超一流の俳人、夏井いつき先生だ。

 日本全国広しと言えども、俳句作りの学びの場として、「俳句ポスト365」→夏井いつき先生→プレバト→「俳句ポスト365」→夏井いつき先生→プレバトといった、言わば循環学校に勝るものはない。

 津軽わさおのこれまでの人生による経験則が、そう言わしめる。だから、俳句集団「宇宙(そら)」は、「俳句ポスト365」への投稿によって、日本全国を視野に入れつつ、挑戦しているつもりである。


 「俳句ポスト365」においては、各回の月曜日から金曜日までのすべてが勉強になる。そのうちでも、とりわけ金曜日発表の天の俳句1句、地の俳句9句及び夏井いつき先生の講評が大変重要だ。その中から、自分の俳句作りとの関連で、何を学ぶか。

 「俳句ポスト365」の第151回 2016年7月7日週の兼題は、「鵙の贄(もずのにえ)」である。兼題の説明に曰く。

鵙の贄(秋の季語)「もずのにえ」。肉食の小鳥である鵙が、その習性として、捕らえた虫や、蛙、蜥蜴などの小動物を木の枝などに刺しておいたもの

 津軽わさおは、今回の「鵙の贄」で、俳句の作り方における「まだ」という言葉の使い方を学んだ。


 何事も勉強の意味で、地の俳句9句中の1句及び選者の夏井いつき先生の講評を以下に掲げる。

 まだそらを濡らして縮む鵙の贄   地選  緑の手    

 天の句は、「鵙の贄」の「体液」が「枝」を濡らしていましたが、こちらの句は「鵙の贄」の存在が「そら」を濡らすかのように乾いていく、つまり「縮む」光景を描きました。

 先ほどの、三音足りない時の「少し」と同様に、二音足りない時の「まだ」「ふと」もよく目にするのですが、この句の「まだ」はちゃんと機能してますね。

 小さな「鵙の贄」の水分が「そら」を濡らせるはずはないのですが、「まだそらを濡らして縮む」という詩語は、「鵙の贄」を表現する詩的真実として、読み手に投げかけられています。

 夏井いつき先生の講評にある天の句を以下に掲げる。

 体液に枝濡れてゐる鵙の贄   天選  ポメロ親父

 また、講評中の「少し」関連の先生の説明を以下に掲げる。

 普通、俳句で「少し」なんて言葉は三音足りない時の埋め合わせに使われたりするものですから、この一語が一句の中できちんと機能している句にお目に掛かることは稀です。


 以上に関する津軽わさおの勉強したところを以下に掲げる。

 俳句では、普通、「まだ」「ふと」という言葉は二音足りない時の埋め合わせに使われたりする。埋め合わせに使われるということは、その時点で、「まだ」「ふと」は一句の中できちんと機能することを放棄されている。

 しかしながら、掲句の「まだ」は、「鵙の贄」が「まだ」「そらを濡らして縮む」中での「まだ」である。「鵙の贄」がまだ生があり、「そらを濡らして縮む」過程を辿っていて、それが→「まだ」なのだ。「まだ」はまさに描写の言葉である。

 つまり、掲句の「まだ」は、一句の中できちんと機能している。

 ここまでは分かるのだが、問題は、夏井いつき先生の講評中の次に掲げる部分である。

  「まだそらを濡らして縮む」という詩語は、「鵙の贄」を表現する詩的真実として、読み手に投げかけられています。

 この点に関しては、津軽わさおは、次のように読む。

  「まだそらを濡らして縮む」は、「まだ縮む」と「そらを濡らして」に分解できる。「まだ縮む」は、まだ縮みつつある過程を表している。問題は、「そらを濡らして」は何を表現しているかだ。

 先生は、答えを示していない。それでも、この詩語は、「鵙の贄」を表現する詩的真実として、読み手に投げかけられている、というヒントを下さっている。そこで、津軽わさおが読み解く詩的真実を以下に掲げる。

 
  「そらを濡らして」とは、「鵙の贄」にとっては、「そらが濡れて」見えることを表している。私たちが、泣いて空を見れば、空は濡れて見える。

  「鵙の贄」がまだ生があり、まだ縮みつつある過程で、そのことを認識しながら、「鵙の贄」は、泣いているのだ。泣いている「鵙の贄」には「そらが濡れて」見えるのだ。「そらが濡れて」見える過程を踏みながら、「鵙の贄」は、絶命に向かっていく。

 このように、「まだそらを濡らして縮む」という詩語は、恐ろしくも悲しい「鵙の贄」の本質、という真実を表現するものであり、同時にそこに詩的真実がある。

 であってみれば、津軽わさお的には、「まだそらを濡らして縮む鵙の贄   地選  緑の手 」の句こそが天の句にふさわしい。


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