メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

雑感日記

カワサキの二輪事業と私  そのー9  大庭浩本部長 

2016年08月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★カワサキの二輪事業が 非常に厳しい状況に追い込まれた1980年の前半、二輪事業の特に海外販社の赤字が川崎重工業本体の経営をも揺るがしたとき、その事業再建に単車本部長として赴任されたのが大庭浩さんである。
大庭さんは、単車に来られる前から、いろんな事業部の再建に関わっておられて『再建屋』と言われていた方である。大庭さんが来られるらしいという噂は、春ごろからささやかれていて、大庭さんに関する情報も、いろいろ私のところに届いて、総じてむちゃくちゃ怖いとか、ムツカシイとか大変な噂ばかりで、後輩の田付さんなどは心配して『大庭対策メモ』など親切に送ってくれたりもしたのである。
その最たるものは、大橋忠晴さんから直接、連絡があって『大庭さんが単車に行かれるので是非お話をしておきたい』と仰って、二人きりでお会いしたのである。大橋さんとは大庭浩さんの次の川崎重工業の社長をされた大橋忠晴さんである。
その時のお話が大庭さんと大橋さんは今までずっと大庭さんが異動される度に、事業部を一緒に渡り歩かれていて『二輌連結』と言われているというのである。今回、初めて大庭さんがお一人で単車に来られるので、大橋さんとしては心配されたのか『大庭さん』のことをいろいろ教えて頂いたのである。
大庭さんが来られる前の6月に大西副社長のところに高橋鐵郎さんと経営報告に行っているのだが、その時も大西さんから『大庭くんをよろしく』とわざわざそんなお言葉を頂いたのである。 
みなさん大庭さんを単車に送り出されたサイドの方は、相当に心配されたようなのである。当時の単車事業部は、ほかの事業部と違って『なかなか上のいうことも聞かない』というそんなイメージもあったのである。それは『いうことを聞かない』のではなくて、二輪事業の経験のない上の方のご意見が『おかしい』ことが多いのである。
そんなこんなで、大庭さんが単車に来られる前から周囲がいろいろと気を遣って大変だったのである。
 
そんな大庭浩さんの『番頭役』を丸3年間務めさせて頂いたのだが、大庭さんは、結構ズケズケ本音でモノを言う単車の水が合われたようで、見事再建も成し遂げられて、単車に来られた時は常務だったのだが、社長含みの副社長で戻られたのである。
大庭さんも非常に単車を気に入って頂いたように思うし、その『番頭役』を務めた私にとっても、40年間のサラリーマン生活で、私の意見を一番聞いて頂いた上司が大庭さんなのである。
 
 
 
 
 
★大庭さんはこの年の7月に単車に来られるのだが、その年の1年間の動きを書いた『私のメモ』である。
来られる前かいろいろあったのだが、7月に大庭さんは単身単車に乗りこんで来られたのである。
そして最初に出された指示が『単車の意思決定のプロセスを一覧化せよ』ということだったのである。これは『鋭いな』と正直そう思った。文章で説明したりするのは意外に簡単なのだが、一覧表に纏めるにはちゃんと理解していないとそれは出来ないことなのである。
この一覧表を創ってくれたのは、後ドイツの販社の社長などをした 佐藤強くんである。
 
  
 
 58年7月6日とある。 私の手元にあるのでご披露しているのだが、この資料は大庭さんがご覧になっただけで、当時の事業部の誰も観たことのない本邦初公開の資料である。
これが大庭さんが単車に来られて、最初の指示に応えた資料なのである。
大庭さんがどんな反応をお見せになるか?  私はある意味『勝負だな』と思っていた。
二輪事業は世界展開で、開発から販売までの、今ま大庭さんが経験されていない分野なのである。大庭さんは、じっと資料をご覧になっていたが、殆ど質問もなく満足されたご様子だったのである。
後々解ることなのだが大庭さんは博士号を持つ技術屋さんで、考えや説明が『理路整然』とした説得力のある理屈がないと気に入らないのである。逆にちゃんとした理屈さえあれば、殆どすんなりと通るのである。
 
そういう意味では、佐藤強くんが創ってくれたこの資料は、開発段階から、川重本社経営会議での最終意思決定までのプロセスを非常に明快に説明出来ていて、大庭さんは直接感想は言われなかったが、『単車を見直す』きっかけになったことは間違いないのである。
これをご覧になると、二輪事業と言うのが商品開発に始まって、製造段階を経て、販売までの大きな仕組みの上に成り立っていることがお分かり頂けると思う。
佐藤君が創ってくれたこの経営の意思決定のプロセスを表す一覧表は、あの時点での従来の企画部門の仕組みを現していて、かってこのような体制で運営されていたのだが、私が企画を担当してからは、この一覧表の中の『企画部門』を本部長のスタッフとして明確に位置づけ、本部長の『すぐヨコ』に付けて、新たに『関連事業部』と言う直販会社を管理統括する部門を設けて、会議形式ではなく日常の仕事の中で企画部門が検討決定して、本部長の決定によりスピ―デーに即実行に移すような仕組みに変更して行ったのである。
考え方としては、ホンダ・スズキ・ヤマハには『本社部門』が存在するのだが、カワサキだけがその『本社機能』を持たずに、動いていたことが、問題だったと私は思ったので、そんな『本社機能』を企画部の中に創って、全軍に旗が振れる体制としたのである。若い時からずっと考えていた『中央コントロール機能』が初めてカワサキの二輪事業の中で実現した時代なのである。
本田宗一郎さんがそうであったように、二輪事業は、リーダーの意思が即実行に移せる『中央コントロール機能』がMUSTだと私は今でもそう思っている。
大庭さんは、ご自身の意思として旗を振る姿勢は大好きで、企画部門の提言に対して、納得されると自分の意思として明確に指示されたのである。
 
 
★ 大庭浩本部長のスタートはこんなことから始まっているのだが、
 
    
 
 大庭浩さんのことを書くにあたって、ネットの中に『いい写真』がないか探しまわったのだが、こんな小さな写真しか現れないのである。
それと言うのも、大庭さんはご自身の写真の選択など、めちゃくちゃうるさいのである。この写真は小さいけど『大庭さんらしく』撮れていて、これなら使っても大丈夫だと思って私はいま使っている。
この写真を、じっと見ていると『モノを言いだすのではないか』と思うほど、大庭さんらしく撮れている。
 
大体、会社の中で偉くなると、下からの評価はそんなに「よくなくなる」もので、大庭浩さんにしても、田崎雅元さんについても、『いろいろ仰る』人のほうが多いのだが、私はこのお二人と一緒に仕事をした仲間として、なかなかお二人ともオモシロいのである。
特に大庭さんが単車におられた3年間は、田崎さんはアメリカのKMCの社長をしていたし、大庭さんを副本部長として支えて頂いた高橋鐵郎副本部長などそれぞれの立場で、結構本音トークが出来て、ややこしかったカワサキの二輪事業は完全に立ち直ったのである。
単車に来られる前の大庭さんは、いろんな事業部の再建をおやりにはなったのだが、それは受注事業の事業部の経営再建であり、その対策の中心は技術部門や生産サイドのことが殆どで、期間損益を黒字にさえすれば『経営再建』が成立する単純なことが多いのだが、単車の場合は販売サイドの資金繰りを含む営業外対策などがむしろ比重が大きくて、そのあたりの経験はお持ちになっていないのである。
KMCの38百万ドルと言う日本円換算で100億円近い「累損消去」を目標などというと『俺はそんなことは聞いていない』などと仰るのである。『この事業部の再建は、世界各社の、特にその中心であるKMCの累損消去なくして再建などとは言えないのです』と言うと、それはそれですんなりと受け入れて頂ける、そんな大庭さんだったのだえる。
当時の事業本部には、小川優さんなど本社財務からその道の専門家も数多く派遣されていて、そのあたりのことは企画を中心のスタッフを信頼して任せて貰えたのである。
 
 
 ★あれだけややこしかった単車が、3年で完全に立ち直ったのは、本社部門の絶大な資金援助が大きかったし、大庭さんのリーダーシップもあったのだが、それを高橋鐵郎さんが、ずっと支えて頂いたからである。
海兵育ちの高橋鐵郎さんは、それまでの職歴では若い頃から、常にリーダーとして動かれていて、副と言う『支える立場』の高橋さんを見るのは初めてだったのだが、誠心誠意大庭さんを支えて、3年間を過ごされたのである。
お二人の信頼感は相当なもので、大庭さんが川重の社長になられてからは、高橋さんを川重副社長に指名されたのである。
 
 
   
 
 大庭さんの写真を探していたら、こんな写真が見つかった。
カワサキの写真ではなくて、『二輪車新聞』が記事に使われた写真である。 
  https://www.nirin.co.jp/pickup/20160617/
 
クリックするとその記事が現れるが、2016年6月17日という今年のバックナンバー という記事なのである。
これは大庭さん、高橋さんお二人にも関係の深かった二輪車新聞の衛藤誠さんの記事だと思う。
衛藤さんは、私も今でも親交があり、二輪車新聞も家まで送って頂いているのだが、この春高橋鐵郎さんがお亡くなりになったことをご存じなくて、6月になって遅ればせながらその追悼記事を書かれたのだが、その際私にもいろいろと電話取材があったのである。多分その時に、二輪車新聞の手持ちの写真を使われたのだと思う。
使われた写真は1996年当時だから、既に大庭さんは川崎重工業の社長であり高橋さんも副社長になっておられたかも知れない。
 
『カワサキの二輪事業の長い歴史』の中で一番貢献されたと言っていいお二人である。
そして、私の『この1年のメモ』には田崎雅元さんをはじめ、いろんな人たちの名前が挙がっている。
そんな人たちの努力もあって、単車に来られて僅か3ヶ月の9月には『単車は思ったよりしっかりしている。将来川重の中で将来性のある事業である』と大庭さんは感想を述べておられるのである。
そのあたりが大庭さんの率直で正直なところで私は好きだった。
そして、この1年前山田専務に『海外の販社の経営』について私見を問われ『大丈夫すぐ黒字になります』とお答えして企画を担当することになるのだが、ちょうど1年経って『販売会社の黒字の目途たつ』と1年で期間損益の黒字化の目途は経っているのである。
 
大庭本部長は84、85年と単車を担当されて、そのあとを高橋鐵郎本部長に託されて本社に戻られるのだが、83年に企画を引き受ける際、山田専務に無理やりお願いして高橋鐵郎さんに明石に戻って頂いたのだが、その高橋さんも大庭さんを名実ともに引き継がれることになったのは、本当によかったと思っているのである。
この3年間、大庭さんはご自身でも世界展開の二輪事業を大いに楽しまれて、本当に『単車ファンに』になって本社に戻られるのである。そして従来は、単車から社長など生まれなかったのだが、大庭さんの次は、『二輌連結』と言われた大橋忠晴さんに、そしてそのあとには単車から田崎雅元さんが、川崎重工業の社長に就任することになるのである。
重工業然としていた川崎重工業の経営にマーケッテング体質のブランデイングや『柔工業』などソフト分野のカワサキワールドなど、ちょっと変わった面が取り入れたのは田崎さんだが、そのきっかけを創られたのは大庭さんだと思っている。
 
★私自身は、大庭さんのお蔭で、川崎重工業の最後は『技監』と言う技術屋さんの博士や、官公庁の天下りの方が来られて役員待遇で処遇される『技監』に川重始まって以来初めての『事務屋の技監』にして頂いたのである。
その時、大庭さんが言われたのは『お前はマーケッテング分野は専門家だから』と言って頂いたのは非常に嬉しかったし、お蔭様でオモシロくない取締役会などに出席する必要もなく、自由に最後の勤めが楽しめたのである。 大庭さん独特の何か『理屈』が通れば、少々おかしなことでも通される、独特の人事だったと思う。
ちなみに私は『技術オンチ』なのだが、川重の役員の方たちの工場見学などでは、『ホントの技監』だと思われる方も多くて、技術的な質問されて答えられずに困ることも多かったのだが、『技監』の名刺は、中央官庁では大いに役に立った。 中央のお役人はご自分たちの先輩の方が『技監』になることが多いので、同じレベルでみて頂けるのである。 確かに『警視総監』の『監』などと同じ字がいいのかも知れない。
 
 

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ