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敗者の日本史(武田勝頼) 

2016年08月03日 外部ブログ記事
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武田勝頼敗北で名家武田家滅亡の道へ

織田の侵攻を前に、家臣の支持を失い滅亡へ
武田家、嫡流の血も名跡もあえなく断絶
興味ある本でしたので、購入しノートとしてブログに記載してます
本には、綺麗な絵画が記載されています
 ☆本『敗者の日本史(歴史REAL)』記事参考&引用
 ☆詳細本で確認ください










武田勝頼(ネットより画像引用)

武田勝頼(家臣の支持を失い滅亡へ)
武田信玄の四男父の死により家督を相続
織田信長に内通していた武田一族の本曾義昌が、造反した
信長の武田領への攻撃命令が出され、二手に分かれて織田方の軍勢が侵攻
徳川家康も駿河国に侵攻し、内通していた武田一族の穴山信君の案内によって甲斐国に攻め込んでいる
各地の武田方の諸城では多くの者が逃亡
勝頼も木曽の軍勢に対処するため、信濃国鳥居峠へ出陣したが敗北し新府城へ逃げ帰っている
織田・徳川連合軍に長篠の戦いで大敗
その後、勢力挽回は果たせず、織田軍攻められるなか自害した

唯一抵抗した伊那郡の高遠城
勝頼の弟である仁科盛信らが守っていた
織田信忠(信長の嫡男)の攻勢によって将士三百人余が戦死した

嫡流の血も名跡もあえなく断絶
勝頼は、新府城に火を放って逃げ出す
勝頼一行は、天目山へ入り、棲雲寺で自害しようとした
その途中、田野郷で休息していた時、織田軍の攻撃を受け全員が自害した
最後まで従った家臣・近習は40人程度であつた
平安末期より450年以上つづいた武田家は滅亡した
名跡は、穴山信君とその子勝千代が継ぐ形をとった
その家系も、勝千代が早世したことによって絶えた
家康の五男万千代が継承し、武田信吉と称しているが、その信吉も水戸城主となった後病死

武田勝頼の墓所
自害した田野の地に建てられた景徳院の境内にある
中央が勝頼、左は嫡男の信勝、右は勝頼正室・北条夫人の墓

新府城
甲府の城から、勝頼が本拠を移した城
織田軍の侵攻に備えて築城されたが未完成に終わった

棲雲寺
山梨県甲州市の寺院
勝頼は祖先ゆかりの地を最期の地としようと考えていたとされる

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