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甲賀忍者と徳川家康 

2016年08月02日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



甲賀忍者徳川幕府創設期大活躍

徳川家康と甲賀忍者(神君の伊賀越え他)
忍者の仕事と伊賀忍者、甲賀忍者の違い
BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組参考&引用




























甲賀忍者(『高島礼子・日本の古都』番組の画面引用)

徳川家康と甲賀忍者
長享の乱(山内上杉家の上杉顕定と扇谷上杉家の上杉定正の間で行われた戦いの総称)
 ☆家康は忍者を活用し交換の人質を確保
神君伊賀越え
 ☆「本能寺の変」起こった時、徳川家康は堺見物で堺に滞在
 ☆甲賀忍者の活躍で、わずかの供回り(34名)を連れて山城国宇治田原に辿り着いた
 ☆伊賀国の険しい山道を経て、加太峠を越え、伊勢から海路で領国の三河国へ戻り岡崎城へ帰還した
 ☆甲賀忍者は、特に伊賀地の通過に大活躍をした
伏見城の戦い
 ☆西軍伏見城攻めの総大将は、宇喜多秀で、総勢4万人の大軍であった
 ☆徳川守備軍は、鳥居元忠を総大将とした1,800人であったが、攻城側は苦戦を強いられた
 ☆城将の鳥居元忠とその兵達が予想外の奮戦を見せ、甲賀忍者の活躍も大とされている

忍者の仕事
領主に仕えずに戦毎に雇われる傭兵のような存在
戦には足軽として参加し、夜討ち朝駆けといった奇襲撹乱を得意とした
その軍事力は村落の自衛に用いられることもあり、また村落外の勢力に傭兵のように貸す場合もあった

伊賀忍者、甲賀忍者の違い
伊賀忍者は、伊賀の地(今の滋賀、奈良県)で発展した忍者集団です
甲賀忍者は、甲賀の地(今の滋賀県南部)で発展してきた忍者集団です
伊賀は忍術や戦闘に長けて、甲賀は薬術などに長けていたのでは?
伊賀忍者は織田信長に反発して蜂起しますが鎮圧され壊滅します
甲賀の方は豊臣、徳川と密接な関係を築き、徳川幕政下(大手門警護等)で細々と生き残りました

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