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雑感日記

カワサキの二輪事業と私 そのー5  高橋鐵郎さんと私 

2016年07月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★  前回にこんなことを書いている。
突如『カワサキの二輪事業と私』と言う自分史を書きだしたのは、カワサキの二輪事業の歴史そのものといってもいい高橋鐵郎さんが、この6月に亡くなられて、その記録を正確に残しておくべきだと思ったからなのである。ご縁があって高橋さんとは40年間ずっと一緒に歩いたのである。『カワサキの二輪事業と私』は『高橋鐵郎さんと私』と言う自分史なのでもある。
 
カワサキの歴史は、昭和36年明石工場で単車の一貫生産が始まった時からだとされているが、それまでは明発工業にエンジンを供給していて、それが『メイハツ』として販売されていたのである。その明発とメグロを川崎航空機が吸収して『二輪車事業』に本格的に参入することになったのだが、その最初の時期から、高橋鐵郎さんも私も、高橋さんはジェットエンジンから、私は当時の明石事務所からそれぞれ単車の生産と営業に異動しているのである。
 
昭和36年の夏、鈴鹿サーキットが完成して、11月に日本で初めてのロードレースが開催されたのだが、そのロードレース観戦にバスを仕立てて、当時の高橋鐵郎さんたち製造部の人たちが『ロードレース観戦』を行ったのである。
このレースの250、350の優勝者はいずれもヤマハに乗った三橋実と片山義美で、お二人ともその後のカワサキのレースチームに色濃く関係されたのも何かのご縁を感じるのである。
このレースを見て、製造部のメンバーたちは、レースに燃え上がり、翌年6月の『青野ヶ原モトクロス』に当時の市販車125ccB8を改造して出場し、1位から6位までを独占したのだが、あくまでも製造部の有志達での参戦で、正式に会社が認めたものではなかったのである。
 
 
  神戸のカワサキワールドに飾られている写真で、左から二人目が当日レースの現場で指揮を取られた高橋鐵郎さんである。ちなみに、当時の鈴鹿レース観戦や、青野ヶ原のモトクロスなどの旗を振っておられたのが、一番左の中村治道さんである。
 
★この時期カワサキは二輪事業に参入したものの、125ccB7がフレームのクレームで返品が続き、営業に異動した私は毎日返品される単車の物品税の戻入手続きが主たる業務であったような状況で、この事業を続けるべきかどうか、日本能率協会が大掛かりな調査をしている最中だったのである。
その日能の判断は、『この事業続けるべし』となったのだが、その判断の中の大きな要素に、『青野ヶ原のレース完勝』に沸く現場の人たちの活気があったのである。
 
 
★若し昭和36年に、鈴鹿サーキットが出来ていなかったら、『カワサキの二輪事業』もなかったのかも知れない。
そして、その翌年の『青野ヶ原モトクロス』で1位から6位独占の快挙がなかったら、『カワサキの二輪事業』は続けていなかったかも知れない。
青野ヶ原の快挙は、カワサキのマシンが速かったのでも、ライダーがよかったのでもない。 当日は雨が降って、レース場は大きな水溜りが出来て、カワサキ以外のマシンはみんな水で止まってしまったのである。そういう意味では『カワサキチームは完全な水対策が出来ていた』と言うのは、その当日はヤマハで出場した山本隆くんの言である。
『鈴鹿サーキットへのレース観戦』も『青野ヶ原のモトクロス』もその仕掛け人は兵庫メグロの西海義治社長でなのである。 
そんな西海さんのことをちょっと。
 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/776f07bedfe3653cafd5e4ca06bcd6db 
 
 
★昭和37年1月、日能の市場調査の結論も『二輪事業やるべし』の判断が出て、単車事業部が出来て『二輪事業の本格的なスタート』となり、日能が事業の本格的なスタート条件の一つにした『広告宣伝課』が出来て『ファクトリレース運営』も『広告宣伝課』も私が担当することとなり、その広告宣伝費として川崎航空機本社が開発費として1億2000万円を3年間、予算付与してくれたのである。
事業本部の売上高が10億円にも達していない時期で、私の年俸が40万円ぐらいであった時代の1億2000万円は非常に膨大な予算だったのである。
 そんなこともあって、高橋鐵郎さんとも、レース委員会の仲間として繋がったのである。
当時のレース委員会のメンバーは技術部からは、山田熙明、大槻幸雄、安藤佶郎、製造関係からは中村治道、高橋鐵郎、田崎雅元、営業からは苧野豊秋という錚々たるメンバーで、後川崎重工業の社長、副社長をされた方が3人もいるのである。私はその事務局を務めていたのである。
 
高橋鐵郎さんの経歴を私が覚えている範囲で並べてみると、
● 戦前は海軍兵学校の3回生の時に終戦
● 横浜国立大学を卒業後、戦後中断していた川崎航空機ではなく川崎機械の高槻工場に入社
● 昭和27年 川崎航空機再開で明石工場ジェットエンジン部門
● 昭和36年 単車事業部製造部 (この時期レース委員会委員で創世記のレースに関係された)
● 昭和44年 カワサキオートバイ販売の販売促進関係に出向、営業部門を経験、マーケッテング・マインドを
● 昭和46年 川崎重工業 発動機事業本部技術本部長に復帰
● 昭和51年 技術本部長のまま『開発市場プロジェクト室』室長を兼務         (企画課長)
● 昭和52年 営業本部長 CKDだけでなくヨーロッパも担当              (企画課長)
● 昭和53年 発動機事業本部を単車と発動機に分割し、単車事業部長、管理部長を兼務  (管理課長)
● 昭和54年 カワサキオートバイ販売副社長を兼務                  (常務取締役)
● 昭和56年 アメリカKMC会長 KMCが大赤字で二輪事業の危機ということで、田崎雅元社長と共に
● 昭和57年 10月 単車事業本部企画室長で復帰、その後事副本部長         (企画部長)
● 昭和61年 単車事業本部長に昇格、 川崎重工取締役、               (企画室長)
● 昭和63年 カワサキオートバイ販売社長を兼務                   (専務取締役)
                              (         )は、その時点での私自身の役職である。
● 1990年代  
 川崎重工の常務、専務、副社長歴任されたが、二輪関連のほか、建設機械関係にも尽力された。その間ずっとカワサキ・モータース・ジャパンの社長を兼務、
● 2000年代  200年代に入り、川崎重工業の理事以上のOB会である 相信会 の会長を長く務められていたのだが、それも体調を崩されて何年か前に譲られたのである。
 
★ このような経歴で、上記の期間のうち緑色に表示した期間が、高橋鐵郎さんを私が支えた期間なのである。私自身も1997年まで、国内市場の責任者を務めたのだが、サラリーマン最後の2年間は当時高橋さんが傾注されていた建機事業部の再建に関連して、『北海道川重建機』と言う名前は子会社のようだが自前の優良会社の社長を高橋さんの要請を受けてお引き受けして私の会社勤めは終わっている。
このようにその殆どの時期を、文字通りカワサキの二輪事業の中枢を歩かれた高橋鐵郎さんと一緒に歩いたので、『カワサキの二輪事業と私』と言う自分史は、換言すると『高橋鐵郎さんと私』の自分史なのである。
このような 順風満帆 のような会社の経歴をお持ちの高橋鐵郎さんなのだが、会社での仕事の実質的な終わりの時期があったのである。
それは昭和56年(1981)表面上の理由は、アメリカのKMCの危機でこれはカワサキの二輪事業の成否に関わる問題だからという理由で、単車事業部長からKMCの会長に赴任されたのである。
この時期、本当にアメリカは大変だったのである。KMCの赤字は100億円に近く、川重の本社財務が懸命に本格的に取り組んでいた時期だが、対策した年も赤字は止まらず、川重全体が無配となり苦慮していた時代があったのである、
その昭和57年の7月、当時のこの問題の本社責任者であった山田専務に呼び出されて、『私見』を聞かれたのだが、『大丈夫、解決できます』とお答えしたら、『では、お前が企画をやれ』と仰るのである。
私が引き受ける条件として『高橋鐵郎さんを企画室長で戻してください』とお願いしたら、山田さんは即座に『それはダメだ。本社の連中がうんと言わぬ』と仰るのである。この一言で、私は高橋さんのKMC会長人事は、帰る場所のない最後の職位だと解ったのである。
なぜ本社の人たちがそう言うのか? その理由は私にはよく解っている。なかなか会社のなかでの人間関係は難しいのである。
 
然し、そんなことは言っておれないのである。
私自身、どのようにすれば赤字が止まるのか?と言う手立てはよく解っているのだが、それは二輪事業と言う大きな経営の仕組みを変えなければならないのである。 その手立ては解っていても、それを全軍に指揮する人がいなければ、それは実現しないのである。
絵は掛けても、成りたての新任部長ではその旗は降れないし、それは事業部で高橋鐵郎さん以外には見当たらないのである。
執拗に山田さんにお願いしたら、その後高橋鐵郎さんの企画室長としての事業本部復帰が決まり、半年後本社から大庭浩さんが再建屋として単車事業本部長に来られて高橋鐵郎副本部長と組まれたコンビは絶妙でで、あれだけ大問題であったカワサキの二輪事業の危機は2年ほどで解決し、大庭さんは本社に副社長に昇格して戻られるのである。
 
私のこんな一言を山田さんが無視されていたら、多分このようにな展開にはなっていないと思う。当時の一新任部長の提言に耳を傾けて周囲を説得して頂いた山田副社長のいい判断だったと思っている。
 
このあと高橋さんが単車事業本部長となり発動機部門との併合もあってCP(Consumer Prrduct)事業本部と改称し、カワサキオートバイ販売も、カワサキモータース・ジャパンと改称した1990年前半は、カワサキの二輪事業の最盛期であったかも知れない。
国内市場ではZEPYREが売れ、ジェットスキーも7000台近くが売れて、『国内7万台の目標』を達成し、業界では『一強3弱』と言われたり、ホンダの仲のよかった佐藤英明さんからは『カワサキに10年遅れた』と言わしめた時代なのである。
カワサキモータース・ジャパンと社名改名したころの高橋さんと私である。長いお付き合いではあるが、ツーショットの写真は、これしかない。
 
  
 
カワサキの二輪事業 は間違いなく、高橋鐵郎さんと共に40年間を歩んだと言っていいのである。その40年間、ご縁があって、私はずっと高橋さんを支えるポジションにいたのである。
そんな高橋鐵郎さんも、もうおられないのである。
この7月21日には、関係の深かった有志が集まって、灘の酒蔵で『高橋鐵郎さんを偲ぶ会』を行おうとしているのである。
 

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