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雑感日記

カワサキの二輪事業と私 その4  (昭和51年から3年間の職制、人事) 

2016年07月14日 外部ブログ記事
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★カワサキの二輪事業は1961年(昭和36年)に実質的にスタートしたと言っていい。125B7や モペットなども生産発売されていた『実用車のカワサキ』として国内市場だけでのスタートだったのである。
その年の11月にスタートした単車営業部に異動した。そう言う意味では、カワサキの二輪事業の最初の段階から絡んでいるのである。
アメリカ市場の開拓が行われたのはその5年後の1966年、車で言えば250A1の時代からである。そしてその2年後にアメリカの販売会社KMCが設立され、1972年にはあのZ1が上市されて、カワサキの二輪事業は急激にその業容をアメリカ市場中心に拡大していくのである。
この時代のことは、種子島くんの本や、当時の推進者濱脇洋二さんの本、ごく最近では『カワサキZの源流と軌跡』などにも紹介されている。   http://www.mikipress.com/books/2013/11/z240.html
   
今年、あったこの本の著者たちの会合である。懐かしい人たちの顔が並んでいる。浜脇さんや大槻さんは85歳なのだがまだまだお元気である。
 
★1976年、私が国内出向から、川崎重工業の二輪部門の企画室に復帰してからの約10年間は、カワサキの二輪事業にとっては、第2期とも、激動期とも、事業存続の危機 とも云える 時期だったのである。
この激動期を乗り越えて今のカワサキの二輪事業があるのだが、その間のことは殆ど知られていない。どちらかと言えば事業部の組織構造、経営の問題だったので、『ほんの一部の人』しかご存じないのである。
多分、現在の現役諸君も、全くご存じのない初耳の話だろうと思っている。
 
★この10年の期間、常に中枢におられたのが高橋鐵郎さんなのだが、その高橋さんもこの6月にお亡くなりになって、この時代を語れる人は、本当に僅かになってしまったのである。
突如『カワサキの二輪事業と私』と言う自分史を書きだしたのは、ワサキの二輪事業の歴史そのものといってもいい高橋鐵郎さんが、この6月に亡くなられて、その記録を正確に残しておくべきだと思ったからなのである。ご縁があって高橋さんとは40年間ずっと一緒に歩いたのである。『カワサキの二輪事業と私』は『高橋鐵郎さんと私』と言う自分史なのでもある。
 
 
第1期の中心人物であったと言っていい、濱脇洋二さんと大槻幸雄さんは1978年3月に『二輪事業部門』から離れられてそれぞれ本社、ガスタービン部門に異動されるのである。 
そんな時期、新しい開発市場国市場へのCKD事業の展開が1976年からスタートし、従来とはちょっと変わった活動が、始まったのである。
然しながら、この時代はまだカワサキにとっては、先進国市場と中大型車のCBU事業が中枢ではあったのだが、現在は開発途上国市場が日本各社の主力市場であることなどから、いい時期にCKD事業への参入であったと思っている。
 
   
 
1976年から、20年間の、私が創った資料がこのように手元にある。当時の資料は、すべて手書きだから、私の自筆の資料が殆どなのである。 会社の決裁書などは、その管理部門からちゃんとした手続きで出されていて、これらはその基資料と言っていい。
 
    
 
 そして、そのスタートが1951年から53年までの3年間、『東南アジアプロジェクト』として纏めている。
 
★ 『カワサキの二輪事業と私』今回の『その4』では、具体的にカワサキの二輪事業が動いたのか?  
その職制の動きと人を中心に纏めてみたい。
 
● 昭和51年(1976)10月に川崎重工に復帰した先は、発動機事業本部企画室だったのである。当時は単車部門と小型エンジン部門の発動機部門とを合わせて、発動機事業本部企画室であり、正確に云うと私の企画室での担当は『単車関係』で小型エンジン部門は別に担当者がいたのである。
● その企画部門も、ホントにちょうど1年で、自ら企画し推進した『小型車プロジェクト』の『東南アジアCKD』事業推進のために創った『市場開発プロジェクト室』に昭和51年の11月には移動している。
この『市場開発プロジェクト室』の室長は高橋鐵郎さんが技術本部長兼務で担当されたのである。
● この部門の活動は、この時代一番華やかで活発、イランには岩崎茂樹、タイに小池博信、インドネシアが大竹国雄と実力者が並び、部品製作など具体的な調達もあったことから資材の実力者、石井三代治さんが来たし。技術部門には藤浦尭士さんや後リンカーンの社長や、川重の副社長を務めた佐伯武彦くんなどが当時はイランの工場に駐在したりしていたのである。
● 事業の推進をするのは人である。この時期このプロジェクトを支えた人たちは、みんなオモシロい想いを持ったプロたちだったと言っていい。前述の責任者たちと同時に地味だったが、佐藤進さんや、タイの現地のチャンチャイさん、その弟のピテイさん、販売の番頭チャンさん、さらにカワ販からはタイに耕守くん、ネシアに久後くんなどが現地に行ったし、イランには鶴谷将俊、経理の湯朝くんなど若かったがそれぞれが精いっぱいの実力を発揮したのである。未だ名前の抜けてる方が居るだろうが、みんな一生懸命だったのである。
特に耕守くんは、その後もずっと現地タイに残り、カワサキのCKD事業の現地プロとして活躍した。当時川重山田副社長がタイに出張されて、耕守くんと接触されたのだろう。帰国されて私に『タイに現地語を喋る凄いのがいる』と耕守くんのことを話されたりしていた。
当時のこのプロジェクトを推進した連中が、みんな自由に動けたのは、その長だった高橋鐵郎さんの部下を信頼してすべてを任すそんな態度にあったのだと思う。兎に角『いい雰囲気』だったのである。
 
● そんな活動実績が認められたのか、52年7月には、営業本部としてアメリカ、国内以外のヨーロッパのCBU市場を含めての担当となり、それも高橋鐵郎さんがたんとうされたのである。ヨーロッパはUKが内田社長、ドイツが種子島社長、フランス、イタリアは伊藤忠が担当していて、車で言えばZ1R の時代である。
●そして53年3月には、濱脇洋二KMC社長が二輪部門を去られたと同時に、それまで企画室で担当していたアメリカ、国内の市場も含めて担当すると同時に、単車の開発・生産部門も含めた単車事業部となり、高橋鐵郎事業部長となるのである。
その職制の中には管理部なる企画室機能も出来て管理部長は高橋さん兼務、で課長としては年次から言えば私が筆頭で、田崎雅元、野田浩志などで構成したのである。
 
   
 
 その当時創った、私が書いた 『単車事業部 長期計画』である。
その基本目標はこのように記している。
 
   
 
 これをご覧になると、この時期から約40年経った現在、83歳の私がいまやっている、『イメージの高質化』活動や、『仕組みの創造』はこの時期にすでに『自分の意見』としてカワサキの二輪事業の基本コンセプトとして確立しようとしているのである。
 
 この長期計画策定にあたっての 高橋鐵郎さんからの自筆の指示書 である。
 
  
 
 ここに書かれてある『CMC計画』とは、吉田専務肝いりで進めておられる、生産管理部中心の『小型車大量生産構造計画』なのである。 CMCとは Compact Mortor Cycle の略である。
この計画は、私は全然『話にならない』と思っていたし、これを阻止するために、開発途上国のCKD事業進出を提案し、それは軌道に乗りつつあった。
私の意識の中には、既にCMC計画はなかったのだが、そのあたりが事業部長と課長の職位の違いで、高橋さんは吉田専務に気を遣っておられるのだと思った。こんなCMC計画などやれば間違いなく事業部の負担になるし、やらなくても『何の問題もない』と思っていたのである。
事実、CMC計画は、このあと数年のうちに自然消滅してしまったのである。
 
 
★この時期は、単車事業にとっては、大変な出来事が次々に起こり、私自身はこの長計を書いた数か月後には、別の新しい仕事に関わっているのである。
とても、CMC計画のための新しい生産設備投資など、考えられない事業本部の状況になってゆくのである。
 
 
● カワサキの二輪事業と私 ―その1  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c
● カワサキの二輪事業と私 ―その2    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b
● カワサキの二輪事業と私 −その3    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be
 
 

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