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雑感日記

カワサキの二輪事業と私 -2 

2016年07月09日 外部ブログ記事
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★昭和50年(1975)10月、10年間に亘る国内市場への出向期間を経て、川崎重工業単車事業本部企画室企画課長に復帰したのである。
 
カワサキの二輪車経営は、アメリカ市場中心で大きく伸長したし、『アメリカでの成功』がなかったら、三菱や富士重、新明和のように二輪事業からの撤退を余儀なくされたであろうことは間違いない。
 アメリカ販売会社のスタート以来、その経営を担当された浜脇洋二さんは、アメリカ人の二輪経験者を中枢に据えるカワサキ独自の『現地主義』経営で、販売だけでなく技術部門も、リンカーの生産工場も一番先に実現した積極経営で、どんどんと業容を延ばされたのである。
その間、A1,H1,Z1などアメリカ人たちの発想が色濃く入った名車が開発されて、Kawasaki のブランドはまずアメリカ市場で確固としたものになるのである。創立以来順調に業績を伸ばしてきたそんなKMCではあったが、1973年以降のオイルショックの影響などもあってようやくその経営にも陰りの見えてきた時期だった。
 
急激にその経営規模を延ばしてきた二輪事業は、川崎重工業にとっても、今後の経営の方向は大きな問題で、その対策として川崎重工本社の財務部門の堀川運平さんが自ら企画室長として来られて、さらに吉田俊夫専務が直接二輪事業を担当されて、今後の長期経営構造計画を策定し進む方向を定めようとしていたのである。
然しながら、吉田専務をはじめとするTopの方々は、従来の受注事業としての経営については豊富な経験をお持ちなのだが、量産事業で且つ末端市場での販売部門を自ら持つ、二輪事業経営については全くの未経験で、私などは課長にもなりたての企画新人ではあったが、少なくとも、マーケッテング分野においては、結構な発言力をがあったし、国内市場での10年間はその殆どが、小なりとは言え、経営者の立場での経験だったので、個別問題ではなくて、大きな仕組みとして物事をとらえる目は有していたのである。
そんな私の企画での担当業務は、『その長期構造計画の立案』だったのだが、企画室に戻った時点では既に、生産管理部門を中心に『小型車生産構造計画』なるものが具体的に立案されていて、画期的な生産構造で小型車をどんどん生産すれば低コストの二輪車が出来るので、50万台を売ろうと言う全くの『生産指向的な計画』が立案されていたのである。
そしてこの計画に乗っておられたのが『吉田専務』だったのである。
 
 
★そんな環境の中で、当時アメリカ市場を担当していた田崎雅元さんと共に、若い新人課長ではあったが、それなりの発言力はあったのである。 特に田崎さんは論客ではあるのだが、文字にして計画に纏めるとなると、これは私独特の得意分野だったし、当時の会社の書類と言うのは、すべてが『手書き』だった。
当時の企画室の資料は、私が策定したものが殆どだから、公式の会社の資料といっても、それは『私自身の発想』であり、私の自筆の書類なのである。
50年の秋10月に復帰して、4ヶ月目の1月には、既に発本戦略を纏め、企画部長、堀川室長、青野副本部長までの了承を取っているのである。
その発本戦略を纏めるにあったっては、当然上司の高橋宏部長や、堀川室長の意見などを聞きながらも、基本的に思っていたのはこんなことなのである。
● 企画に来てまず思ったのは、既に立案されている『小型車生産構造計画』などダメだと思った。
● 仮にそんな車が造れてもカワサキにはそれを売る販売網などどこにもない。
● ただ、もう進行中のプロジェクトで吉田専務も気に入っておられる計画だから露骨にダメだなどとは言えないのである。
● 『小型車』はそのまま生かして、開発途上国のCKD市場の小型車でスタートしようとしたのである。
● この小型車は同じ小型車でも、100?前後のオートバイタイプでCKDだから基本的に明石での生産投資は不要である。
● 中大型車と違って、結構数も読めるはずである。
● 日本市場と違って、それぞれの市場に投入できる車種数も、現地の日本人の要員数もそれぞれの国で制限がある。
● ホンダ・ヤマハ・スズキの小型車先進メーカーに対して競争条件を相手に国が狭めてくれている。
この辺りの戦略を当時の営業部と打ち合わせて4ヶ月目には報告書に纏めたのである。営業部長が かってカワ販の販売推進部の上司であった矢野昭典さんだったから、信頼もあったしスムースに纏めることが出来たのである。
当時の私のグループは東大出の武本一郎、その下は後二輪事業部の事業本部長も務めた森田進一くんなど英才ばかりだったから、私独特の意見の理解も早く、数値資料などはがっちりと纏めてくれたのである。
 
    
 
★そんなことで当時の51年度に纏めた企画室の資料は、その殆どが私の手書きで纏めた『私の資料』ばかりなのだが、そんな1年の動きを月ごとに纏めたのが次の表で、これは私個人のメモみたいなものだが、この1年のカワサキの二輪事業の動きを纏めたモノといってもいい。 
 
 
  
 
この表の中で、その当時のいろんなことが読める。
1月には『発本戦略』として単に生産構造だけでなく『経営全体』特にマーケット状況を纏めている。
2月には、田中部長が推進していた『生産構造計画』の纏めを手伝っている。自工会企画部会の佐藤英明氏とあるのはホンダの佐藤さんのことで、なかなかの人だったが、何となく気が合って、長くお付き合いが続いたのである。後年、杉沼浩さんをMFJの常務理事にお願いした際、引き受けてくれたのが佐藤さんなのである。
3月には、『小型車に関する考察』と言う論文を纏めている。これはあとでちょっとだけ資料をお見せしよう。私にしか書けないといっていい独特の論文である。 10年間のマーケットへの出向が効いていて、事業部Topから一字句の修正もなく承認されたものである。
4月 種さんはドイツが決まった。 調査団の団長は最初は大槻幸雄さんが指名されたはずだが、ミスターHPの大槻さんは小型車などと断られて、高橋鐵郎さんに変わったはずである。先日大槻さんご本人に聞いてみたら断ったと言っておられた。
5月〜6月 台湾ータイーインドネシアーイランーマレーシヤと約1ヶ月の現地調査、その報告書などすべて一人で纏めた。
メンバー 高橋鐵郎団長、安藤佶郎副団長、川崎芳夫、山辺昂、松田与市そして私 と案内役に多賀井クンの7人そして秋には『市場開発室』と言う部門が出来たのである。
高橋鐵郎さんは、技術本部長のまま市場開発室長を兼務され、そのまま営業部長、管理部長とその後の高橋さんの進路に大きな影響のあった調査団長だったのかも知れない。
この年以降私の現役引退までずっと高橋さんとは一緒だったし、引退後NPO The Good Times を創った時にも真っ先に相談したのは高橋さんでスタート時期から『相談役』になって頂いたし、NPO The Good Times の個人会員番号は昔のプロ野球の監督NO.0030を差し上げているのである。
ちなみにN0.0031は、この当時の仲間、のち川重社長の田崎雅元さんだし、N0.0032はZ1開発責任者で、カワサキの最初のレース監督でもあった大槻幸雄さんなど30番台は百合草さんや大津信くんなどカワサキのレース仲間が続いている。
 
ちょっと脱線したが、この1年は、私の現役時代でも相当に熱っぽく動いた1年だったと思っている。
メモに『企画がエリートコースなら、自らそれを捨てる道を選んでいる』と書いているし、『1年間の企画は勉強にはなったが情熱は湧かなかった。本当の意味で企画の中枢に返り咲く日を楽しみに』と本音を書いている。
そして、この1年間は、『東南アジアプロジェクト』に終始した1年であったと言っていい。私が建てた『仮説通り』にこの1年間は進行して12月には私は具体的にタイのマーファミリーと具体的な交渉に入っているのである。
1年後には『小型車構造プロジェクト』は影が薄くなって、『市場開発プロジェクト室』と言う新しい組織が華々しくスタートし、具体的なプロジェクトとしてどんどん動き出したのである。
私もその一員として企画から1年で異動してこのグループでは文字通り高橋さんを支えて中枢として動いているのである。
 
 
 
★前述した『小型車に関する考察』と言う私が書いた当時へのトップへの報告者だが、この報告者によりこの1年が動いたといってもいい。
25ページにわたるものだが、事業全般を総括したものであり、結構ちゃんと計算して、戦略的に持論を展開しているのである。特に『ホンダのロードパルコンセプト』には、ビックリされたようだった。
 
  
 
  
その最初のページの書き出しである。
当時の事業部は個別的な案件は検討されてはいるの小だが、小型車に対する『事業部内の基本認識』が統一されていないし、今後の『小型車検討の方向付け』など総合的な考察が欠けているので、この報告書では、そのあたりのことを提起して、若し問題があれば、ご指摘下さいと申し上げたのだが、一字句の修正もなく、報告書通りに承認されたので、自由に具体的に自分の思う通りに動けたのである。
 
 
   
 
  
 
そして最後の纏めで、受注産業のメーカーとして 発展してきた川崎重工の一番の『不得意分野』の販売会社を含めた事業展開の経営理念などを指摘しているので、Top としてもただ聞くだけで『よきに計らえ』ということになったのだと思う。
 最後の『ブランドイメージ』 これらの分野の基礎知識は本格的な広告宣伝を4年間担当した時に、広告代理店の本店企画部のエリートたちから学んだことが身についているのである。
 
    
 
 私のカワサキに於ける40年間は、端的に云えば『カワサキのブランドイメージの高質化』活動であったと言い切れるのかも知れない。業界で『暴走族はカワサキだから、二輪車のイメージ向上は川崎さんで』などと冗談で言われたりしたのだが、結構私はマジメに取り組んだのである。
 
★NPO  The Good Times のホ―ムページです
 

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