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平成の虚無僧一路の日記

女陰は法の御蔵 

2011年01月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



一休さん、道端で女が小便をしているのを見、陰門を拝み、
「ありがたや、ありがたや」と云ったとかいう話が出回っている。

この出典は、江戸時代に書かれた『一休諸国物語』だが、
話は 全然違う。
 
一休が川辺を通りかかると、女が裸になって水浴びをして
いるのを見て、三拝して過ぎ去った。居合わせた人々は
「世の中の坊主は、女の裸を見たら、心地良げに、ねちかえり
ねちかえり隠れ見るのに、あの坊さんは、拝んで行って
しまったよ。仔細を尋ねん」と、追いかけて一休の袖を
つかまえ、「女の裸に三拝するという法が、仏教にあるの
ですか?」と問う。一休かく言い捨てて過ぎ行く。

 女をば法(のり)の御蔵(みくら)というぞ、
  げに、釈迦も達磨も出(い)ずる玉門(ぎょくもん)

村人たちは、「殊勝な坊主なり。実にまことに、高貴の方
も高名の僧もみな、女人の胎内から産まれたという心なる
べし、尤もなり」と、感心する という話なのである。

もっとも、これも江戸時代の創作話で、一休の『狂雲集』に
ある「盲目の森女(しんにょ)」への愛を歌った詩から、
着想を得たものであろう。

一休は、森女の陰門をまさぐり「枯れた梅の老木も甦る」
とか、「そなたの陰水は、水仙の香りがする」と、愛を
赤裸々に表現しているのである。これをそのまま読めば、
どすけべな一休だが、これには、裏に、もっともっと深い
意味が隠されていることを知る人はいない。この詩から
江戸時代の戯作者は、上記のような「女陰は法の御蔵」と
いう道歌を導き出したのは、まだ すばらしい。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

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