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平成の虚無僧一路の日記

五木寛之『親鸞』 13 

2011年01月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



1/14 中日新聞『親鸞』(五木寛之)

「物乞いを見て、哀れと思ってはならぬ。ありがたいと
手を合わせよ。病に身は膿み崩れ、身に糞まみれの
ボロをまとっていても、それはすべて仏の姿である。
あの者たちは皆、そなたたちの業を背負って苦しんで
くれている仏たちなのだ」

松本清張の『砂の器』も、ライ病を煩って、物乞いと
なった父の、惨めな生活が描かれている。そういう人に
対して、ゲドイン(外道院)は「哀れと思ってはならぬ。
有り難い仏と思って、布施せよ」という。

五木「親鸞」は、この「外道院」を是認するのか、
はたして、「外道」と断ずるのか。先が読めない。

虚無僧を見て「哀れ」と思って 布施される人もいれば、
「ありがたい」と手を合わせて喜捨される方もいる。
虚無僧は、「忌み嫌われ、蔑(さげす)まされるる者」から、
「哀れみの目で見られる存在」。そして「崇(あが)め
奉られる対象」なのか。

五木寛之の『親鸞』の読者は、虚無僧を見る目も
変わっていくことだろう。

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