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住民に「生きろ」沖縄戦時の島田知事 

2015年08月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



島田叡 沖縄県最後の官選知事

座右の銘は、「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」
沖縄戦では、10万に以上が死亡しており、国民は捕虜になるなら自害しろと教育されていた時代です
県民の疎開にも力を入れ、県外へ7万人、沖縄北部へ5万人を疎開させた
島田知事でなければ、20万人以上の県民が死亡したとも言われています










島田知事(ネットより引用)

島田知事の最期
県職員、警察官に対し「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し組織の解散を命じた
『教養OR母性の本能』の判断から?世の流れに抵抗し、県民・職員の自害を戒めた
『とどろきの壕』を出てのち消息を絶ち、今日まで遺体は発見されていない
県民からの寄付で、島田をはじめ県職員の慰霊碑として「島守の塔」が建立された

島田叡学生時代
中学・高校・東大では、野球に熱中し、第1回全国中等学校優勝野球大会に出場
高校時代での『えいさん』の滑り込みは有名で、東大時代は、野球部のスター選手でした
東大卒業後内務省に入省する

沖縄県知事の発令
1945年1月10日、沖縄県知事の打診を受け即受諾
沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めた
島田は「俺が断るわけにはいかんやない」と、日本刀と青酸カリを持参し、死を覚悟し沖縄県に赴任

沖縄県知事時代
県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理した
台湾へ飛び、交渉の末、蓬莱米3千石分の確保に成功
空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕の中で執務を始めた
沖縄戦戦局の推移に伴い、壕を移転させながら職務遂行

陸軍守備隊の首里放棄し南部撤退に関して、
「軍が首里で玉砕せずに撤退し、住民を道連れにするのは愚策である」と島田知事は憤慨
牛島司令官は「第32軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ」と説いて撤退を決めた

島田知事の最期
県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じた
島田知事は、荒井警察部長と壕を出たきり消息を絶ち、今日まで遺体は発見されていない
県民からの浄財の寄付で、島田をはじめ死亡した県職員の慰霊碑として「島守の塔」が建立された

大田少将との関係
沖縄の地で玉砕した大田とは「肝胆相照らす」仲でした
大田が、通信設備遮断された島田に代わって県民の姿を軍部に報告した文章です
『民間人の苦労を伝えるのに最も相応しいのは、最後まで県民と共にあった島田達です』と

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