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平成の虚無僧一路の日記

「慰安所設立」は主計の手柄? 

2015年08月15日 外部ブログ記事
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中曽根康弘元首相が、『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)に
寄せた一文が 今 問題になっている。「海軍主計士官」だった中曽根が、インドネシアの
設営部隊の主計長だった時の自慢話。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。
そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、
ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。
そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」と。
 
1978年当時は「慰安所」のことなど、公然の恥部で、後に問題になるとは
思って いなかったのだろう。
実は私の父の『従軍記』にも同様の記述がある。
父は陸軍の主計少尉で、中曽根氏同様、2000人の部隊の食料調達や
衣料物資等の補給にあたっていた。慰安所の設置は「広西省・羅城」でのこと。
 
「昨年五月、武漢地区を出発して半年。長かった湘桂作戦もようやく終わった
という感が深かった。長く駐留するとなると、治安上からも慰安所が必要でないかと
大隊長に相談して開設することになった。まず村長に適任者の差出しを命じた。
彼は後家と出戻りの二人を連れてきた。他方 私は 范(中国語の通訳)を
連れて 宜山の難民区に行って勧誘した。范の説得がきいて三人と話が
決まった。美人だった。羅城に連れてきて、まず風呂に入れて洗った。これが
大変な騒ぎ。次いで軍医に検診してもらいOKとなったので開設開店した。
兵隊からは形ばかりの料金をとった。この金は部隊の別途会計。(勿論
兵に還元するように使ったが)。押すな押すなの大盛況、大好評だった。
主計多しといえども Pヤ(? 売春宿の隠語か)のオヤヂまでやった者は
そうおるまい。羅城は桃源郷。他の部隊から多いにうらやましがられた。
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さてさて、応募してきた女性は、文面では合意の上のようだが、日本軍の
申し出に抵抗できない環境ではあったろう。そして、「大隊長の許可を得て
はいるが、一主計の計らいでおこなった」ことは、軍隊の関与となるのか
問題となるところ。
 
 

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