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私家版・日豪の比較文化人類学 〜群れから抜け出した羊が見たもの〜

4−1 ファースト・ネーム 

2010年12月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

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<b>私は「Shigemi」</b><br />
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 「ロン」だの「ヤス」だのと名字、姓ではなくて下の名前(名)や愛称で呼び合うのが親しく気が置けない間柄で、外交の場でそれを実現したと自慢げにしていた人がいました。確かに名字にミスターやミセスを付けて呼びかければ、改まった冷たい印象はあるでしょう。<br />
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 私たち日本人の礼儀や習慣を基準にして考えますと、初対面の人は互いに名字に「さん」などを付けたり肩書きで呼び合い、しばらくして出身地や卒業校が同じだとか、共通の友達がいたりすることが分かると次第に打ち解け、また同じ趣味の仲間であったり、困難な作業を協力して成し遂げたりすると相手の呼び方が変ってきます。でも、このような場合でも、多くは名字を呼び捨てにすることが多く、下の名前で呼ぶことは稀だと思います。私たちも移住当初はこちらでも同じだと思っていましたが、どうもこれは違っていて、こちらでは初対面の場面からファースト・ネーム、すなわち下の名前で呼び合うようなのです。<br />
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 私たちが住んでいる地域の行政府が主催して、毎月最終金曜日の夜、様々な国からオーストラリアに来ている人たちが1皿ずつお国自慢の料理を持ち寄って「マルチカルチュラル・ディナー」と呼ばれる会が開かれます。友人に誘われて私たちが初めてこのパーティに参加した時、名札に「Akamatsu」と苗字を記入して胸につけていました。しかし、周りの人たちの名札を見ると皆ファースト・ネームが書かれているので「私はShigemiです」と自己紹介すると相手は不思議そうな顔で私の名札を見るのでした。その事情を説明するのに苦労をし、少し恥ずかしかったことがあります。<br />
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 また、私が参加している男声合唱団「バデリム・メイル・クワイヤー」の仲間はもちろん、友人が誰かを紹介してくれる場合でもいきなりファースト・ネームです。親しくしている友人の名字を忘れてしまったり知らなかったりする場合もあるほどです。ついでながら、「部長」とか「先生」と肩書きでその人に呼びかけることはありません。幼児が両親を呼ぶ際の「マミー」とか「ダッド」は名に代わる固有名詞的な使い方でしょう。<br />
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<b>名前を覚えるのが苦手な私たち</b><br />
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 前述のように私たちは人を肩書きや「お宅のご主人」、「おばあちゃん」などと呼ぶ場合が多く、姓や名を使わなくても不便はありません。こうした習慣のためなのか、人の名前(姓名)を覚えることがとても下手ですね。ひどい場合は、数回会って会話した相手でも名前を聞きそびれてしまって「いまさら聞く訳にもいかないし……」という場面がよくあります。これが使い慣れていない外国人の名前であればなおさらです。私たちは初対面の人に会うと、手帳に姓名とわずかでも分かっているその人の情報をそっとメモして、早くその人の名前を覚えて失礼がないように努めているのです。<br />
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 反対に、オーストラリアの人たちは名前(この場合は下の名前)を覚えることが本当に上手です。こちらの人には私たち日本人の名前は覚えづらいだろうと思うのですが、「ごめん、外国人の名前はすぐに忘れてしまうから、何度も聞くからね」と言って2〜3回聞くとすぐに覚えてしまいます。子供の頃から隣のおじさんでも学校の先生でも名前で呼ぶのが普通だからでしょう。そして、ビジネスはもちろん遊びの場面でも相手の名前を早く覚えることが基本的なマナーと考えられているのです。<br />
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 私は先のマルチカルチュラル・ディナーの際の名札の失敗以後、自己紹介する時にはまず下の名前を紹介してから名字「赤松」も付けたすようにしています。その時、その意味を英語でRed Pine(赤い松)と教えてあげると相手はすぐに覚えてしまいます。でも相手が私を呼ぶのはやはり「Shigemi」です。<br />
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 オーストラリアの人の姓名は綴りや発音だけで闇雲に覚えようとすると難しいのですが、ちょっとした工夫や知識が役に立つことがあります。例えば、下の名前はキリスト教の聖人・天使からとった人が多いので覚えるのに好都合です。マイケルあるいはマイクは天使ミカエル、ポールは使徒パウロ、ジョンは使徒ヨハネからですね。また、名字も赤松のように意味を持っている場合が多いので、それを知っていると便利です。例えば、Mcやsonは「息子」ですからMcdonaldさんやJonsonさんはドナルドさんとジョンさんの息子ですし、Taylorさんは仕立て屋さん、Millerさんは粉屋さん、Cookさんは料理人ですから覚えやすいですね。<br />
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 困るのは同じ名が名字にも下の名前にも使われるのがあることです。私のバデリム・メイル・クワイヤーの指揮者はロス・ジェルフ、伴奏者がグレグ・ロス、事務局長がロス・スチュワートですから、これはもうフルネームで覚えるより方法がありません。 <br />
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<b>私は「おじさん」?</b><br />
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 正直な話、移住当初は「ハーイ、Shigemi」と声を掛けられると、何だか奇妙な感じがしたものです。下の名前で呼ばれるのは両親に叱られる時や、兄たちに使い走りさせられる時がほとんどでしたから家族以外の人に下の名前で呼び捨てにされると、どうも落ち着かなかったのです。<br />
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 それはともかく、なぜこのような些細な習慣の違いをとりたてて話題にしているかと言うと、私は名字ではなく下の名前を呼ぶという行為の意味、理由には1人ひとりの個人を互いに尊重するという本当に大切な考え方があると思うからです。「下の名前を呼ばなければ人を尊重できないのか?」と言う人もいるかもしれませんが、そういったレベルの話ではなく、名前を呼ぶことの背景・根底を考えたいのです。<br />
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 私は「おじさん」であったり、かつては「部長」であったり、時には「ご主人」であったり、学生時代の仲間には「赤松!」であったりします。しかし、ここでは誰もがいつでも「Shigemi」と呼びます。私の家族・家系はみな赤松で、おじさんや部長やご主人は世の中にいっぱいいます。私は他の多くの同類の中の1人であるよりは、世界にたった1人の人間でいたい。私は小さな人間だけれど成美でなければならないし、成美以外の何者でもないと思いたいのです。他人も自分を尊重して欲しいと願うのは当然の事で、互いに所属分類の最小単位の下の名前で呼び合うのがその人個人を最も尊重する自然な方法ではないかと思うのです。<br />
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 ビジネスの場面では「○○会社XX部の誰々です」ということは当然ありますが、どうも私たちは人をどこかに所属させて考えないと収まらない習性があるようです。人はその個々の人格や人柄、教養、力量などで評価されるべきで、その人の家系、肩書きや所属する団体や地域などによって決まるものではないはずですね。<br />
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 論理がやや散漫になってしまいました。しかし、こうした事を考えて慣れてくると「Shigemi」と下の名前を呼ばれることが当然で心地良くさえなってきます。<br />
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 日本にいる時は名字で呼んでいたお友達もこちらに遊びに来てくれると、急に呼名が下の名前に変わってしまう人がいたりするので当の本人たちは当惑しているかも知れません。<br />
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