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「人にはどれだけの物が必要か」 

2015年02月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し




鈴木孝夫著「人にはどれだけの物が必要か」を読み終わった。
 
「いかに良いことでも度が過ぎれば、具合の悪いことが出てくるのは誰でも知っている。私たちの病気にしても、よく効くからといって使う量をどんどん増やしていけば、たちまち有難い薬が恐ろしい弊害や副作用を起こして、取り返しのつかないことになる。実は人体にとっての毒と薬は、ほとんどの場合、全く同一の物質がもつ二面なのであって、一定量以下が薬として役立ち、それを越せばすぐ毒として作用し始めるのである。
 
これと同じことが生活の便利とか快適、そしてそれを可能にする技術革新や経済発展と呼ばれる人間活動についても当てはまるのだ。人類はこれまで何千年もの間、もっと豊かな生活がしたい、もっと幸福になりたいと、たゆまぬ努力を続けてきた。予期せぬ災害や外敵による不意の侵略破壊などのために、一時的部分的に文明が後退したことはあっても、人類は全体として昨日よりは今日、今日よりは明日の一層の豊かさ快適さを常に求め、そして確実にそれを手に入れてきたと言えよう。
ところが皮肉なことに、と言うよりはむしろ当然の結果として、人類がかくも長い間、良きこと好ましいこととして少しも疑うことのなかった、豊かさ快適さをもたらす経済の発展、技術の進歩が、薬で言えばそれが毒に変ずる損益分岐点を、いつのまにか越してしまったのである。
 
その分岐点とは第二次世界大戦直後の1950年代に始まった世界的な石油系化石燃料の爆発的な使用拡大に他ならない。これ以後現代にいたるまでの半世紀の間に人類の未曾有の繁栄が全世界をおおい、余力の一部は宇宙の開発まで及ぶのであるが、それと同時に、もはや誰の目にも明らかな地球の全生態系の崩壊、大気、水、土壌といった無機物質系の異常も加速し始めている。今や薬は明らかに毒として働きだしたのだ。
 
この本の中で私が自分の体験に基づいて主張したことは、私たちがうかうかと通り過ぎてしまったこの損益分岐点まで、とりあえず戻る努力をすべきだということである。そのための具体的な方策を、それこそ進んだ科学、技術の力をかりながら、全力をあげて探そうということに尽きる。」
 
・・・・と著者は、そのあとがきで語っているが、この本は20年前に書かれたものである。この本の最後に、さらに20年後のあとがきがある。
そのあとがきは次のような短いものだ。
 
「この本を書いてから、20年の歳月が流れた。その間、残念ながら地球の環境はさらに悪化の一途をたどっている。中国ではPM2.5(微小粒子状物質)による大気汚染がほぼ限界に達している。日本でも、東日本大震災のときの福島第一原発の事故により、エネルギー政策の転換を求める声が強くなってきた。これ以上の経済発展が人類に幸福をもたらすかどうか、根本的に考え直さなくてはいけない時期にきているのではないだろうか。
本書は現在ドイツでも翻訳中である。このような時代にこそ世界中の人に読んでいただき、地球と人類の未来を真剣に考え、人間本来の豊かな生活を取り戻すきっかけになってくれることを切に願っている。」
 
著者の言う「私たちがうかうかと通り過ぎてしまった」と言っている期間は、図らずも私が生まれ育った期間であるがゆえに深く考えさせられるものだが、7年前にこの地に移り住み、自然の中で暮らすようになったため、これ以上の経済の発展や科学技術の進歩が必要なのか疑問に思うようになっている自分がある。しかし、一例ではあるが、電気自動車や水素で走る自動車も出現している。世界中のすべての車から排気ガスがなくなれば大気汚染の改善ははかり知れないものがある。
 
もっとたくさん、もっと早く、もっと、もっとと進んできた人類。もうこれ以上のものは必要ないのではないか、と著者は言う。まったく同感だ。できるだけ物を買わない。なんでもできるだけ捨てないで直して使う。私たちが簡単にできそうなことを実践していきたいものだ。
 
 
 

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