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ワイツゼッカー元ドイツ大統領ご逝去、ナチスの反省、不朽の名演説! 

2015年02月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

昨日、ナチス反省演説で、人類の道標を示された
ワイツゼッカー元ドイツ大統領が、死去されました。

謹んでご冥福をお祈りしますと共に、
大統領の、不朽の名演説を、お示しします。

※ 転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ
       から、転載させて頂きました。
http://ameblo.jp/study2007/entry-10236801513.html




? ワイツゼッカー連邦大統領演説「荒れ野の40年」全文(1985年5月8日) ?


5月8日は心に刻むための日であります。
心に刻むというのは、ある出来事が
自らの内面の一部となるよう、
これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。
そのためには、われわれが真実を求めることが
大いに必要とされます。

われわれは今日、
戦いと暴力支配とのなかで斃れた
すべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべておりす。
ことにドイツの強制収容所で命を奪われた
600万のユダヤ人を思い浮かべます。
戦いに苦しんだすべての民族、
なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。


ドイツ人としては、
兵士として斃れた同胞、
そして故郷の空襲で捕われの最中に、
あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を
哀しみのうちに思い浮かべます。


虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、
殺された同性愛の人びと、
殺害された精神病患者、
宗教もしくは政治上の信念のゆえに
死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。


銃殺された人質を思い浮かべます。
ドイツに占領された
すべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。


ドイツ人としては、
市民としての、
軍人としての、
そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、
労働者や労働組合のレジスタンス、
共産主義者のレジスタンス
??これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。


積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、
良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。


はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。


死者への悲嘆、
傷つき、障害を負った悲嘆、
非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
空襲の夜の悲嘆、
故郷を追われ、暴行・掠奪され、
強制労働につかされ、
不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、
捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、
迷いつつも信じ、働く目標であったものを
全て失ったことの悲嘆
??こうした悲嘆の山並みです。


今日われわれはこうした
人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに
思い浮かべているのであります。
人びとが負わされた重荷のうち、
最大の部分をになったのは多分、
各民族の女性たちだったでしょう。


彼女たちの苦難、忍従、
そして人知れぬ力を世界史は、
余りにもあっさりと忘れてしまうものです。
彼女たちは不安に脅えながら働き、
人間の生命を支え護ってきました。
戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たち
を悼んできました。
この上なく暗い日々にあって、
人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。


暴力支配が始まるにあたって、
ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの
底知れぬ憎悪がありました。
ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、
全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。
ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、
いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、
ことに人種法を厳密に遵守し、
かつまた世界のあらゆる民族を毒する
国際ユダヤ主義に対し仮借のない
抵抗をするよう義務づける」と書いております。


歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪
??これと無縁だった国が、
ほとんどないことは事実であります。
しかしながら、
ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、
というのは歴史に前例を見ません。


この犯罪に手を下したのは少数です。
公けの目にはふれないようになっていたのであります。
しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、
冷淡に知らぬ顔をされたり、
底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、
さらには公然と憎悪を投げつけられる、
といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、
これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。


シナゴーグの放火、掠奪、
ユダヤの星のマークの強制着用、
法の保護の剥奪、
人間の尊厳に対するとどまることを知らない
冒涜があったあとで、
悪い事態を予想しないでいられた人は
いたでありましょうか。


目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、
調べる気のある人たちなら、
(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。
人びとの想像力は、
ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。
しかし現実には、犯罪そのものに加えて、
余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこう
と努めていたのであります。
当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった
私の世代も例外ではありません。

良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、
目を背け、沈黙するには多くの形がありました。
戦いが終り、
筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、
一切何も知らなかった、気配も感じなかった、
と言い張った人は余りにも多かったのであります。


一民族全体に罪がある、もしくは無実である、
というようなことはありません。
罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。


人間の罪には、露見したものもあれば
隠しおおせたものもあります。
告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。
充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、
その人たちは今日、
一人ひとり自分がどう関り合っていたかを
静かに自問していただきたいのであります。




長くなりますので、以下、次号以降に続けます。
お読み頂きやすいように、文字に色も付けました。
私も、平素の享楽に紛れ、つい、忘れがちなことを示して頂いた、
民主主義の在り方、日本の政治にも、思いを、寄せて、お考え頂きたく、
ご紹介、申し上げます。m(_ _)m

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