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『決断力のある人物』井伊直弼 

2015年01月19日 外部ブログ記事
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江戸の幕閣井伊直弼

井伊直弼⇒大老、主君(徳川家慶→家定→家茂)、彦根藩主














井伊直弼(ネットより引用)

井伊直弼の家督相続
井伊直中の十四男として彦根城の二の丸で生まれる
兄弟多く、庶子で養子の口もなく、父の死後15年間を捨扶持の部屋住みとして過ごす
国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、埋木舎と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らしていた
藩主で兄の直亮の世子、直元が死去したため、彦根藩の後継者に就任

井伊直弼幕末の動乱の中で
彦根藩時代は、藩政改革を行ない名君と呼ばれた
幕閣として、将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を示す
黒船来航で、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国を主張している
直弼は、将軍徳川家定の継嗣問題で、紀伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋派との対立を深めている

井伊直弼大老就任
直弼は勅許なしの条約調印に反対であったが、朝廷の反対も国体を損わぬようにとの配慮からとの見解から調印
日米修好通商条約が調印、徳川慶福を次期将軍に決定した件は、井伊直弼の決断が全てです
直弼の対応に憤った水戸藩士らが、朝廷に働きかけ、孝明天皇は戊午の密勅を水戸藩に下し直弼を辞任に追い込んだ
幕府は、密勅に関与した人物を摘発し、多数の志士(吉田松陰等)を粛清した

井伊直弼桜田門外の変
独裁政治は、尊王攘夷派など反対勢力の怨嗟を受けた
幕府は、水戸藩の不穏な動きを関知はしており、大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべきと勧めた
辞職・帰国が嫌ならば、従士を増やして万一に備えるように述べるも、直弼は受け入れなかった
井伊直弼の行列は、桜田門外で、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士18名による襲撃を受けた
刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、首を刎ねた、享年46歳

井伊直弼人物・逸話
部屋住みの時代に、儒学、国学、禅、書、絵、歌、剣術・居合・槍術・能楽等多数学ぶ
彦根市と水戸市は、明治百年を契機に歴史的わだかまりを超え「親善都市」提携を行った
安政の大獄で死罪となった吉田松陰は、彦根藩主就任当時に藩政改革を行った直弼を「名君」と評している
徳川慶喜は、回想録で、直弼のことを「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評している

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