メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

宮尾登美子さん逝く 

2015年01月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



宮尾 登美子さんが 暮れの12月30日に亡くなられた。88歳。
1926年 高知の遊郭で芸妓紹介業を営む「女衒(ぜげん)」の
岸田猛吾の子として生まれる。 (従軍慰安婦の調達も 彼ら
「女衒」の役割だったか)。そんな出自に負い目を感じていたが、
46歳の時1972年(S47)、自分の父母生のことを書いた『櫂』を
自費出版。翌年太宰治賞を受賞し、出世作となる。
 
この作品が、昭和48年、有楽町の芸術座で演じられた。
そのタイトルは『喜和』だった。「喜和」は宮尾登美子の母親がモデルで 
この作品の主人公。劇場の看板に「竹を割ったような性格」と書かれて
あった。 その頃の私は「宮尾登美子」の名も知らなかった。なにせ
彼女もまだ無名だった。その作品の内容も知らず、結局、芝居も観なかったが、
「喜和」という名前に惹かれるものがあった。それで、実はS49年3月に
生まれた長女に、名前を「喜和」とつけたのだ。
当時「太地喜和子」がいたが、「喜和」という名前は珍しく、 娘はよく
「よしかずくん」と男の子に間違えられて、いやだったようだ。
十朱幸代主演で映画化されたのは 1985年(S60)。この時
映画を見て内容を知った。随分暗く地味な映画だった。十朱幸代は
「竹を割ったような性格」とはほど遠く、いつも眉をひそめて、
イジイジした性格で、私はどうも好きになれず失望した。
 
1979年『一絃の琴』で直木賞を受賞。 これは むさぼり読んだ。
邦楽界の一面をみごとに切り取っている。
1983年『序の舞』で吉川英治文学賞受賞。このお題は、創作邦楽で
さかんに使われ、私も鼓との共演で、何度か舞台に立った。
 
そして、『陽暉楼』。『鬼龍院花子の生涯』は映画も見、すっかり
宮尾登美子のファンになった。いや「夏目雅子」に惚れた。
彼女は私の妻と同じ「東京女学館」。お嬢様学校だから、
あるCMで、水着姿で足を開いた大胆なポーズが問題となり、
自主退学になったとも。 まだまだそんな時代だった。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ