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江戸の文化人(阿部忠秋、堀田正盛) 

2015年01月02日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



江戸時代の幕閣

阿部忠秋 ⇒武蔵忍藩主、老中、老中の阿部重次は従兄
堀田正盛 ⇒大名、老中、武蔵川越藩主、信濃松本藩主他














江戸の文化人(ネットより引用)

阿部忠秋履歴
剛毅木訥な人柄で、幕政を安定させることに貢献した
関ヶ原の戦いを扱った歴史書『関原日記』の編者です
忠秋は責任感が強く、捨て子を何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げた

阿部忠秋逸話(機知にとんだ人柄でした)
寺の僧侶が、他国の寺院へ転属する命令を頑として受け入れない
松平信綱が理路整然と僧侶に転属の理由を述べて説得したが、僧侶ますます反発
「お咎めを受けても行きませんと僧侶は答える」「咎めとして転属を申し付けると」忠秋が伝える

堀田正盛履歴
堀田正盛の父正吉は700石の旗本となる、その家督を継いだのが正盛です
正盛は、徳川家光の近習に取り立てられ、酒井重澄と並ぶ寵臣として出世した
家光に深く寵愛され、老中に就任し、武蔵川越藩主、信濃松本藩10万石となる
家光の死去にともない阿部重次と共に殉死した

堀田正盛の出世は異常な早さです
家光と正盛は男色関係にあったと見るのが有力です
江戸時代初期までは男色は上級武士のたしなみで、出世のタネでした
殉死は、主君と男色関係にあって異例の立身をした者の義務でした

堀田氏のその後
佐倉藩は長男の正信が継いだが、幕政批判と無断帰国をしたため改易された
後に子孫は佐倉藩に戻り、譜代大名に昇格、正信の子孫と共に明治維新を迎えた

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