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のびたの日記

青春の1ページを共にした先輩から電話があった 

2014年12月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



もしもし 元気かな? 電話の向こうから第一声だ 
あっ よっちゃんだ!! 忘れもしない17歳から22歳まで 青春のすべてを共にした先輩である
仕事も歌も 映画も レストランも スキーも山も 全て一緒の1歳上の先輩である
 

 
私の家は貧しかったから 中学を出るとすぐに定時制高校に通った
学校へ行きながら 仕事をさせてくれる会社は殆ど無く 町工場に勤めたものである
プレス工場で 半年も過ぎた頃 謝って指の中心に小さい穴を開けてしまったこともある
 
当時のプレス工場は 指が2.3本無くなって職人と言われた時代だ 実際にそんな方も居た
学校は工業高校 男子校だ 仕事が終わると 夕食にコッペパンをかじって登校した
勉強は嫌いでは無い ただ 仕事の疲れで眠くなることが多く クラスの何人かは居眠りしている
 
クラブ活動があって 何となくコーラス部に入った そんなに好きと言うものでなく興味半々である
講師は昼間 公立中学の音楽女教師で 小柄で綺麗な方 歳では一回り上だった
ここで 先輩と知り合った 仲良くなり その方の勤めている町工場へ来ないか誘われ転勤した
 

 
相性が良く 仕事の合間でも 百人一首の掛け合いなどもして 笑いあった
17歳頃 偶然知り合った同年代の女性 先輩 音楽の女教師 この4人で青春のページが開いた
有楽町のロードショーを観て 銀座裏のレストランや 鳥ギンと言う釜めし屋にも何度も行く
 
甘いものが好き 上野の みつばし みはし かのこ など食べに良く行ったものである
この時はアメ横ガード下のラーメンや 純喫茶にも行った
音楽会は日比谷公会堂が多く この頃は セミクラシックファンとなった
 
ハイキングもこの4人で出かける 三浦半島の丘陵 雲取山 大菩薩 入笠山 蓼科など
キャンプもした 登山注意の浅間山にも登った みんなの笑い顔は今でもそのまま想い出される
冬には 石打 湯沢など スキーに行って 夜はトランプなどに興じて楽しかった思い出は尽き無い
 
私が高校を卒業して21歳の頃だったか  若い彼女が結婚して 次いで先輩が結婚した
私も 22歳の時に結婚して 主賓は当時も勤めていた 町工場の社長だった
奥様とは 小学校の教師をしていた時に知り合ったそうで 父親の町工場を継いでいたのである
 

 
私が所帯を持つと どうしても安月給で生活が苦しく 中堅企業に就職して この町工場と別れた
その後の話で 社長の娘さん 20歳の時 最寄りの駅で倒れ帰らぬ人となった 病死だった
成人式に用意した晴れ着は間に合わず 棺に入れたと聞く
 
その後は娘の供養の為 毎日 観音像を刻む日々になったと聞き及ぶ
先輩も独立して 小さな会社を設立して 順調に経営したようであった
それぞれの結婚を機に この仲間たちは会うことも無くなってしまい 年賀も出していない
 
一度 先輩の家が船橋に出来て 庭の桜が綺麗に咲いたからと お誘いがあり再会した
そしてまた 私も離婚して住所も変わったから そのままだったが町工場の社長へは年賀状は続けた
私が青春時代を思い出すと 全て このグループへの想い出につながる 爽やかな青春だった
 
突然の先輩からの電話で 彼が私に言う 奥さまは元気かね?
いや はるか前に離婚して 今は亀戸でひとり住まいだよと報告した
実はね 町工場の社長と今一緒にいて 懐かしく話をしていて電話したんだよと言っていた
 
社長への年賀はがきで およそは知ったそうである
社長は現役引退して 現在 介護付き老人ホームに居ると言う
そして 先輩も その老人ホームで部屋は違うが一緒に生活しているんだと笑っていた
 

 
歌声喫茶も このグループで良く行ったものだ 新宿の 灯やカチューシャ である
山の行き帰りにも リュックを背負って 店に入って行っても違和感が無く大きな声で歌った
今日は 下町のうたごえ 私が主催している 大勢の方と会う 時代は大きく変わった
 
   最後までお読みくださいまして有難うございました m(_ _)m
 



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