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雅走草想

本能寺の変の?真相? 

2014年09月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

  まだスジに痛みが

 夕方になってだいぶ良くなったが、午前中はまだ右わき腹
後ろのスジ?が、背中をのばすとピクピクと痛みが走る。

 掃除や片づけ作業など、やらなければならない家事はある
のだが、食器洗いなど最低限の家事だけ済ます。

  夕方にはだいぶ楽に

 あとは軽いストレッチでスジ?などのばしてみる。あとは
まったり。おかげで?夕方になるとだいぶ楽に。

 情報チェックしていると、明智光秀の子孫が「本能寺の変」
の狄秦雖瓩魏鮴發箸いΦ事に目が留まる。

 「光秀が信長の厳しい仕打ちを恨み、本能寺の警戒が薄い
ことにつけ込み暗殺した」というのが本能寺の変の通説。

  光秀子孫が通説に異論

 しかし50年にわたり独自に本能寺の変を調べてきたとい
う、子孫である作家の明智憲三郎氏は異論を唱える。

 憲三郎氏によると、信長は以前より徳川家康を危険人物と
見なしていた。

  家康暗殺の計画

 そして、信長が家康を本能寺におびき寄せてから暗殺する
よう、光秀に命じていたのだという。

 本能寺の変の当時、家康は本能寺に向かって上洛している
最中であったとの記録があると。

 また光秀の家臣の記録にも「本能寺に行くのは家康を討ち
に行くのかと思っていた」との記載があるとか。

  信長の中国征服野望

 一方、「イエズス会日本年報」には信長が中国を征服する
という野望を持っていたとの記録がある。

 光秀が中国侵攻を命ぜられれば、最悪の場合、明智一族が
滅亡してしまうことも。

  中国行きか謀反か

 光秀は中国行きとなるか、謀反を起こすかのどちらかを選
ばざるをえない状況だったと指摘。

 危機を感じた光秀は、信長の暗殺計画を家康に伝え、光秀
は家康と信長暗殺で協力関係を結んだのではないかと推測。

 本能寺の変を予想していた秀吉は、長距離を短時間で移動、
山崎の戦いで光秀を討っている。

  秀吉の正当性を歴史書に

 その後、秀吉は「光秀が恨んで信長を殺した」と、本能寺
の変のわずか4カ月後に歴史書を書かせた。

 秀吉は信長を裏切った光秀を成敗、その正当性を主張し権
力者の地位に収まったというのだ。

  430年間騙されている

 そして秀吉が書かせた歴史書により「日本中が430年前
の秀吉に騙されている」と結論付ける。

 ほとんど歴史の記録は権力者によってつくられるからね。
時の権力者に都合のいい内容になっているものが多い。

 まあ、ことの真偽は知る由もないが、なかなか興味深い内
容ではあるね。

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