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高橋大輔選手・「英子さん」 

2014年08月15日 ナビトモブログ記事
テーマ:人生

この世にいるのは、男性と女性。この両者がいろいろに影響し合いながら、あるいはさまざまに絡み合いながら、それぞれの人生が紡がれていく。

 フィギュアスケートの高橋大輔選手。その人となりと人生を観察していると、この人は、男性よりは、むしろ女性に色濃く影響を受けているように見える。

 高橋選手に影響を与えた女性としては、何と言っても、その一番手は、長光歌子コーチだ。

 長光歌子コーチが高橋選手に宛てた手紙、いわゆる「歌子先生からの手紙」の中で、歌子先生が語る。

 「キミに初めてであったのは。君が中学2年の夏休み、仙台・泉のリンクでしたね。私がリンクで滑っていると、英子さんに連れられてリンクに入ってきてリンクサイドに佇んでいました」

 その時、高橋選手は13歳で、歌子先生は48歳。高橋選手は、13歳のまさに少年、ぼくちゃんだ。歌子先生は、48歳で、フィギュアスケートコーチとして、まさにバリバリだ。高橋選手は、3月生まれだから、中学2年の夏休みは、まだ13歳である。

 それ以来、今日まで、実に15年の歳月が流れ、世界の高橋大輔選手の今がある。

 15年と言えば、15年だ。当たり前である。そうではなく、15年とは、長い期間だと言いたいのだ。13歳の少年が中学校を卒業し、高校生になり、その高校も卒業する。大学生になったと思ったら、大学も卒業し、それからでも6年が過ぎている。

 現在、28歳の高橋選手は、長光コーチと共に、15年もフィギュアスケート人生を歩んできているわけだ。自我が確立する時期以降の大半に当たるから、高橋選手を語るとき、長光コーチからの影響を抜きにしては語れない。

 このように、高橋選手に影響を与えた女性の一番手は、長光歌子コーチであるが、そのほかに気になる人がいる。「歌子先生からの手紙」の中で、仙台・泉のリンクで歌子先生が「滑っていると、英子さんに連れられてリンクに入ってきてリンクサイドに佇んでいました」の「英子さん」だ。

 「英子さん」とは、どういう方なのだろうか。


 高橋大輔選手は、岡山県倉敷市の出身である。中学2年の夏休み、13歳の高橋少年は、倉敷から仙台に行ったわけで、「英子さん」が高橋少年を連れて行ったことになる。

 「英子さん」のことを知りたくて、例によって、ネット先生に教えを請うた。

 「高橋大輔 英子さん」で検索をかけると、次のブログがヒットした。

 高橋大輔、庶民の子がメダルを目指せたのは?ソチ入りに両親は?http://気になるニュース.net/archives/909

 このブログ記事曰く。

 「フィギュアスケートの高橋大輔選手は岡山県倉敷市の出身です。鳶職の父と理容店で働く母、男ばかりの4人兄弟という6人家族。家は家賃3万7千円の借家で、生活は厳しかったようです」
 
このブログ記事等を参酌のうえ、以下、書かせていただく。

 高橋大輔選手は、男ばかりの4人兄弟で、お父さんは鳶職、お母さんは理容師さんだ。で、家は家賃3万7千円の借家であれば、生活は、楽ではないだろう。

 今、28歳の高橋選手を基に推定するに、4人兄弟だから、3歳ずつの年齢差があるとして、長兄は9歳年上の37歳、お母さんは25歳違うとして62歳、お父さんは65歳、といったところだろう。

 となれば、中学2年の夏休み、13歳の高橋少年が「英子さん」に連れられて仙台に行った時、長兄は22歳、お母さんは47歳、お父さんは50歳だ。

 ここで気がつくのだが、先ほど、この当時、歌子先生は48歳と書いた。ということは、高橋選手のお母さんと歌子先生は、同い年くらいだ。言わば、高橋選手は、二人の「お母さん」の薫陶よろしきを得て、生きてきたことになる。

 で、高橋選手のお母さんが働いている理髪店「タムラ」の長女が「英子さん」である。


 英子さんとは、理髪店「タムラ」の長女であることが分かった。しかし、ネットで調べても、これまた年は分からない。が、推定する材料はある。

英子さんは、高橋大輔選手の大輔という名前の名付け親であること。13歳の高橋少年を連れて、仙台まで行けること。高橋少年がフィギュアスケートを始めたのが8歳になった時からで、フィギュアスケート教室に通うための送り迎えを英子さんが担当してくれたこと。

英子さんが大輔という名前の名付け親であるであれば、いくら若くても名付け当時、中学生くらいになっているであろう。フィギュアスケート教室に通うための送り迎えは、車でだろうから、高橋少年が8歳の時、英子さんは車の免許が取得できる高校卒業後ということになる。それやこれやで、英子さんは、高橋選手より15歳は上で、仙台旅行当時は28歳とみる。

 実は、高橋少年がフィギュアスケートに出会ったのは、英子さんのおかげといっていい。

 泣き虫だった高橋少年が8歳になった時、理髪店「タムラ」のお客さんが「アイスホッケーをしないか」と誘ってくれた。数日後、高橋少年は、英子さんと一緒にアイスホッケーを見学に行った。すると、アイスホッケーの練習の隣で、フィギュアスケートの練習が行われていたのだ。「英子姉ちゃん、あっちじゃダメかなあ」。

 人生には、運命的な出会いというものがある。高橋少年とフィギュアスケートとの出会いも、まさにそれだ。

 理髪店「タムラ」のお客さんが高橋少年をアイスホッケーに誘った→英子さんが高橋少年をアイスホッケーの見学に連れて行った→アイスホッケーの隣でフィギュアスケートの練習→「英子姉ちゃん、あっちじゃダメかなあ」。

 理髪店「タムラ」がなかりせば、英子さんがいなければ、高橋少年とフィギュアスケートとの邂逅はなかった。そう考えてくると、結果的に、理髪店「タムラ」、そして、そこの娘の英子さんの功績は大である。

 英子さんは、高橋大輔選手の名付け親にして、フィギュアスケートと巡り合わせてくれた恩人である。しかも、この恩人は、高橋選手の技量を伸ばすために、練習の送り迎え、遠征時のサポート等に大車輪の活躍をしてくれた。

 英子さんが高橋大輔選手をサポートしてくれたのは、8歳の時から高校卒業までの10年間にも及んだのではないか。だとすれば、高橋大輔選手の成長を語るとき、英子さんの存在を抜きにしては、語れない。

 あらけない、という言葉がある。荒気ない、と書く。「ない」は意味を強める接尾語で、荒気ないとは、ひどく荒々しい、粗暴であるという意味である。

 男には、ひどく荒々しい、粗暴であるという程度に至るのは稀としても、普通に荒々しいという精神要素がいくらかはある。女にも、少しは、荒々しいという精神要素の持ち主がいるかも知れないが、まあ、荒々しいは男の専売特許だ。

 しかし、高橋大輔選手には、この荒気ないがない。彼の印象は、あくまでも優しいである。荒気なくはない、心優しい男。それが高橋選手である。

 これは、どこから来たか。それは、高橋選手のお母さん、理髪店「タムラ」の娘の英子さん、そして、歌子先生の、三人の女性から来た。

 だから、そういう意味でも、高橋大輔選手は、希有の存在である。




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