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平成の虚無僧一路の日記

拝領妻 

2014年08月14日 外部ブログ記事
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先祖の[牧原只右衛門」は、会津藩三代目藩主正容(まさかた)が幼少の頃から 小姓として仕え、正容の兄たちが次々早世して、正容が藩主と なったことから、側用人、奉行として重用された。 その正容には、正室の他に6人の側室がおり、9男4女をもうけたが、 次々に早世しており、お市の産んだ8男容貞が8歳で4代目藩主となる。 この正容の6人の妻妾のうち4人までが、子をなすと家臣に下賜される という特異な事件が起きている。これが「拝領妻」だ。 最初に下賜されたのが「おもん」。おもんは嫉妬深く、気性激しく、 神尾家に下げ渡されたが、神尾家では、おもんを座敷牢に押し込め 幽閉するしかなかった。 やがておもんの産んだ子が13歳で亡くなると、ますます狂乱となり、 おもんは、自分を神谷家に下げ渡した側用人牧原只右衛門と杉本 源五右衛門を怨み呪詛しながら悶死した。そして神谷家も断絶する。 牧原只右衛門は、断絶した神谷家の屋敷を賜り、移り住むと、長男が 病に倒れ亡くなったり、次男が下僕を殺して蟄居を命じられるなど、 不吉なことばかり起きた。そこで陰陽師に見てもらったところ、 屋敷内に祠があり、中から釘を刺した人型が出てきた。おもんの呪詛 だった。 当時、世継ぎがなく、末期養子は禁止で、牧原の家は断絶になるところ であったが、当家は横山家から養子を迎えて、断絶を免れた。 柴桂子著「会津藩の女たち」によると、おもんのライバル「お祐」が、 横山家の出で、牧原に迎えた養子はお祐の従兄だったことがわかった。 そして、柴桂子によれば、妻妾の下賜は、殿の意ではなく、最後まで殿の 側に留まっていたお祐の差し金だったろうという。女の争いあな恐ろしや。 これで、当家がお家断絶を免れたわけも、すべてが合点した。 このような視点を見つけられる作家はすごい。おみごと。それにしても 当家の家系までよく調べているものである。感服。 「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。 私のメールは goo3360_february@mail.goo.ne.jp

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