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平成の虚無僧一路の日記

先祖の名に多治見 

2014年08月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



私の先祖に「多治見」という名の人がいる。多治見といえば、 岐阜県の多治見市だ。人名では珍しい。なぜ多治見なのだろう。 多治見の地名は江戸時代の初めに遠く会津まで知られていたの だろうか。そんな疑問もあって、昨夏多治見を訪れた。 虚無僧の格好で。とにかく暑かった。多治見が40度を超え、最高気温を更新した日だった。日曜日の朝9時に着いたので、商店街もまだ閉まっている。 ぶらぶら歩いて、高台の方へ上って行った。一戸建ての邸宅が並ぶ 新興住宅地である。昼まで流して、反応全くなし。コンクリートの 照り返しで暑い。 木陰を求めて坂道を下りた。旧市街地は古いしもた屋が残っている。 戸も開け放たれたまま。 「おや、めずらしいね」「暑いのにご苦労さま」と、言葉をかけながら、 お布施も気持ちよく入れてくれる。 新興住宅街より、やはり下町が虚無僧には似合っている。 しかし、とにかく暑かった。休み休み町中に向かって歩いていると、 図書館があった。地図を見なくても、自然と目的地へ着くのだ。 虚無僧姿で入っていっても、誰も驚かない。そのまま図書館へ入って、 涼みがてら多治見の歴史を調べてみた。 多治見が美濃焼きの集積地となって、名が知れ渡るようになるのは、 幕末のようだ。江戸時代初期にはまだそんなに有名ではなかった。 となると偶然か??。 系図を見てあれこれ推測してみた。「牧原多治見」は病弱だったので、廃嫡 され、家老の横山家から養子を迎えている。この横山家は岐阜の 加納藩から会津に来ている。この横山氏が牧原家の実子の元服に際して 名づけ親となったのではないか。病弱だったので、不死身ならぬ多治見 とした。推測である。 皮肉にも横山家からの養子は早世して、廃嫡された多治見は57歳まで 生きた。当時としては天命を全うしたことになる。

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