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尺八と横笛吹きの独り言

「東祖谷の粉挽節」パート? 

2014年01月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●今日の「民謡ウンチク」の舞台は徳島県三好市東祖谷菅生(ひがしイヤすげおい)だ。正月早々から、東祖谷の粉挽唄についてこだわっている。
 今年第一号の記事だね。
本年も相も変わらぬお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げまーす。
さて・・・・
写真は阿波踊りで有名な徳島県、今日の舞台は地図の赤丸で示した三好市である。
すぐそばに大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)の景勝地がある。2億年の時を経て四国山地を横切る吉野川の激流によって創られた約8kmにわたる溪谷。舞台は山奥ですね。 

fueブログのhttp://blogs.yahoo.co.jp/shakuhachi_fue/53073328.htmlでも一度紹介致しましたが、いくつか修正がありました。民謡の会員の方からも資料をいただきました。
まずはこの地方の有名な民謡「祖谷の粉ひき唄」だ。
●祖谷の粉ひき唄
哀愁がただよい、唄うほどに涙ぐむ唄。阿波踊りの間奏曲にも取り入れている(広島のこころちゃん)
この唄は、日本三大秘境のーつ、徳島県西祖谷山(三好郡西祖谷山村)の山村で、大豆・黍(きび)・蕎(そば)・麦などの穀類を、石臼で粉に挽(ひ)くときうたわれてきたものである。もとは「粉挽き唄」ではなく、当時の流行唄であったらしいが、江戸時代末期に西祖谷山村の松爺、俗に“粉挽き松”と呼ばれた人がその流行唄に返しをつけて今日の「祖谷の粉ひき唄」に作りあげたといわれている。粉を挽く際、臼を廻す芯棒を握る人が音頭を取り、押し手役が返しの部分を受けもって掛合で唄い始めたのが、たちまち西祖谷山村地区に広まった。しかし山村であることから各地に伝わることはなかった。昭和34年民謡研究家の服部龍太郎この地を訪れた時にこの改良節を聞き、この唄を歌手の島倉千代子にうたわせたところ秘境哀歌のような感じで日本中に広まった。
この祖谷粉挽き唄と並びここで紹介した東祖谷の粉ひき唄も大変愛好者が多い。
以上「日本の民謡 秋田・みんよう企画」から抜粋させて頂きました。
●「東祖谷の粉挽節」は「祖谷の粉ひき唄」ほど有名ではない。正式には「東祖谷の粉挽唄」とは言わないで「東祖谷の粉挽節」と言うらしい。ネットでも調べたがこの「東祖谷の粉挽節」についての曲説明はほとんど載っていない。

 
●小島峠(おしまとうげ)・・・・「こじまとうげ」でなく「おしまとうげ」だ。
「小島峠で菅生見ればよ あいもかわらぬ徳島よの サーヨイヨイ」
古くから祖谷の民謡にも唄われている峠で、昭和58年林道白井線が開通し東祖谷とつるぎ町一宇を車で30分でつないでいる。標高は1210m。
地図の赤丸は徳島県三好市東祖谷菅生から剣(つるぎ)町一宇(いちう)を結ぶ小島峠だ。
●「東祖谷の粉挽節」歌詞
_任犬祺任犬磴伐任里覆靴緡てなヨー
可愛い我が子もオオ 人の嫁よ サーヨイヨイ

臼よ早よ廻(ま)え 早よ廻(もう)て終(しま)えよ
門(かど)に立つ殿(との)オオ 待ち兼(か)ねるよサーヨイヨイ

小島峠(おしまとうげ)で 菅生(すげおい)見ればヨー
相(あい)も変わらぬウウ 徳島よ サーヨイヨイ

づ圈覆澆笋魁忙廚┐弌〃遒気曇るヨー
飛んで行きたやアア あの空へサーヨイヨイ
この歌詞H屬肪録泙両島峠が出てくる。
●「小島という女郎さんのお話」が隠されています。
岩井 清峰氏の解説から抜粋させていただきました。
「小島(おしま)という女郎さんが、菅生(すげおい)の男性に惚れてしまい、峠を追いました。この峠で菅生を眺めたとき、こんなに遠くまできてもここも徳島よのう」と言った。そこでこの峠を小島さんの名前をとり小島峠となった」
・・・・菅生とは地名であり、菅笠(すげがさ)のことかと思っていました・・・・

●「_任犬祺任犬磴伐任里覆靴緡てなヨー
可愛い我が子もオオ 人の嫁よ サーヨイヨイ」
「嫁のなしゅう・・・・」とは「嫁のなあ衆・・・・」といった嫁達の意味ではないのでした。
岩井さんの資料によれば「嫁の名性(なしょう)・・・・」と言葉だそうだ。
嫁さんの名前を言って悪口を言わない方が良いよ・・・・だって可愛い我が子も人のお嫁さんになるんだからね・・・・と諭しているわけだ。

「嫁の名性(なしょう)・・・・」でなく「嫁の名姓(なしょう)・・・・」と書くのがが正解かもしれない。「なしょう」が「なしゅう」に変化したようだ。

●臼よ早よ廻(ま)え 早よ廻(もう)て終(しま)えよ
門(かど)に立つ殿(との)オオ 待ち兼(か)ねるよサーヨイヨイ
 恋にときめく山深い里の乙女。あの人が待ってる、すぐにでも会いたい。臼よ早く、仕事を終わらせておくれ…臼にも祈りたい思い。宵闇の里の切ない逢瀬を想像します。恋する乙女の哀切の歌に、暮らしの苦難さえしのばれる。
http://www.actiz.jp/kiji/children_song/detail.html/?pref_id=36&seq_no=1

 
●高麗神社に初詣。正式には高句麗(こうくり)神社。日本名で高麗。
急に孫が熱が出て元旦は来られない。そこで今のうちに二人で初詣だ。
「今年1年、健康でありますように・・・・」と願った。
●高麗神社
紀元前1世紀〜7世紀後半まで朝鮮半島の北部を中心に栄えた高句麗国の王族・高麗王若光を祀る神社。霊亀2年(716年)1799人の高麗人が移住して高麗郡が設置され、初代の郡長として若光が赴任した。出世開運の神として知られるほか、梅や桜の名所としても有名。


●いつものデニーズ。あれやこれやと・・・・じっくり考えるタイム。
つづき。
●徳島県三好郡西祖谷(いや)村の民謡。
高知県から流れる吉野川をたどると、大歩危小歩危の奇勝を経て徳島県に入り、ここから一方は愛媛県へ、もう一方が祖谷川となる。更に上流は剣山がそびえており、その麓が、屋島の戦いに敗れた平家の落人が逃れ住んだという日本三大秘境の一つ、三好郡西祖谷村となる。四国の屋根とか阿波のチベットなどと呼ばれている祖谷地方は、傾斜の急な山ばかりで空らしいところはない。現在でこそ道路も通って車やバスが往復し、その渓谷の美しさ、特に秋の格別さを知る人は多いが、自給自足のかつては、粟、稗、とうもろこし等を粉にして常食とするなど、急傾斜地農業に依存するのみであった。
その粉引き作業は主に、嫁の夜なべ仕事であり、昼間の疲れからくる睡魔に耐えるために唄われたのが、この「祖谷の粉ひき唄」なのである。
いくつかの落人伝説に於いて、かずら橋が天然の「しろくちかずら」で作られている理由として、源氏の追討使が攻めてきた時にすぐ切り落とせるためというのが専らの説であるが、かたや、揺れる橋を見て遠い京の都を思い唄ったのではないかなどという説もあって、興味深い。
昔は多くの歌詞が唄われたが、特に橋を渡るのに非常に苦労したのでこの歌詞がよく唄われた。東祖谷にも同様の唄があったが、今では里唄と呼ばれて残っている。
http://matsusakaki.com/?p=170より抜粋

 
●商売道具のお手入れ(年に1〜2回)。
昨年の末に商売道具を全部出してクルミ油をぬりたくった。
これだけ乾燥していると尺八も割れる。注意。
また1年、お世話になりますね。
 さてどんな年になるやら・・・・

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