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「謹賀新年・人生90年時代を讃える歌」 

2014年01月01日 ナビトモブログ記事
テーマ:人生

 新年明けましておめでとうございます。みなさん、今年もよろしくお願い申し上げます。

花の命は短くて苦しきことのみ多かりき

『放浪記』、『浮雲』などの代表作で知られる作家の林芙美子が色紙などに好んで書いた短い詩である。

女性を花に例え、楽しい若い時代は短く、苦しいときが多かった自らの半生を歌ったものとされている。

 この歌を分解すれば、次のようになる。まあ、短い四行詩ないし四行歌とも言える。

 花の命は 短くて 苦しきことのみ 多かりき

 私は、三行目の「苦しきことのみ」は「苦しきことの」とした方が味があると考える。

 人生が「苦しきことのみ」多かりきとは言えない。苦しきことの方が多いかどうかは人によるが、苦しきことの方が多いと歌うことは可能だろう。
しかし、「苦しきことのみ」多いとは、論理的にも言えない。「のみ」ならば、「苦しきことのみ」が多いか少ないかではなくて、「苦しきことのみ」だ、となる。

 花の命は 短くて 苦しきことのみ ありき が正解だ。
 
 しかし、人生が「苦しきことのみ」だとは、あんまりだ。人生は、苦しきことの方が多いとしても、「のみ」ではなく、必ず楽しいことはある。人生とは、そういうものだ。

 だから、

 花の命は 短くて 苦しきことの 多かりき

の方が正解であり、余韻がある。

 かく言う私は、五七論者である。俳句、川柳、短歌、五行歌あるいは十行歌、三行詩ないし四行歌などを作るに当たって、これらのすべてに当てはまる私なりの基本がある。それは、五音からなる言葉と七音からなる言葉で綴るということだ。
 
 五音あるいは七音からなる言葉は、いろいろ吟味される結果として、綺麗な日本語、美しい日本語であることが多い。

 そして、俳句や川柳は、短く、綺麗な、美しい日本語が用いられると同時に、五七五の音のリズムがいい。
 逆に言えば、リズムがいいからこそ、五七五の定型を決めたのだと思っている。
 
 また、俳句のルーツは和歌にあるという。俳句、川柳は五七五、短歌は五七五七七の定型詩であるから、先ほど述べたことは、俳句、川柳、短歌の全体に当てはまる。

 そして、五行歌あるいは十行歌、三行詩ないし四行歌など、すべてに当てはまる。

 だから、私は、五七論者である。


 勝手に、「のみ」ではなくて「の」にし、「花の命は短くて苦しきことの多かりき」を用いることにするが、この歌を口ずさむと、この歌の理解をどのようにすべきか、といろいろ考えてしまう。

 花の命は 短くて 苦しきことの 多かりき

 この歌を詠んだ林芙美子が生きた時代背景を考えないと、的確な理解をすることはできないのではないか。

 林芙美子は、1903年(明治36年)12月に生まれて、1951年(昭和26年)6月までの47年間を生きた。
子どもの頃は、行商人の子として貧しさの中で各地を転々とする生活だったという。そうした生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に名作があると評されている。

 日本人の平均寿命が50歳を超えるようになったのは、第二次大戦後になってから、つまり1945年(昭和20年)以降のことであり、それまでは、人生50年時代がとてつもなく永い期間続いた。
 
 林芙美子が生きたのは、まさに人生50年時代である。

 人生50年時代では、成人してから30年しか生きれない。20歳からせいぜい三十代半ばまでが、それこそ花が咲く時期だろう。
 50年の生涯のうち、20年かけて成人し、その後、楽しい若い時代は15年、それが過ぎ去ると、残りは15年だ。

 これだと、人生50年時代の印象としては、女性を花に例えると、楽しい若い時代は短い。そして、楽しい若い時代と同じくらいの期間、そうではない時代が続く。それを思えば、

 花の命は 短くて 苦しきことの 多かりき  

と詠まざるを得ない心情も理解できる。 


我が国における人生80年時代の到来を謳った1984年度(昭和59年度)の「厚生白書」から29年を経て、人生80年時代は今や現実のものとなっている。
 それどころか、最近の元気な80歳前後ないし90歳前後の日本人、つまりアラエイやアラナイの元気いっぱいさを見ていると、実は、人生80年時代が過ぎ去って、既に人生90年時代の到来を迎えていると言っていい。

 人生50年時代では、成人してから30年しか生きれない。20歳からせいぜい三十代半ばまでが、それこそ花が咲く時期だ。
 50年の生涯のうち、20年かけて成人し、その後、楽しい若い時代は15年、それが過ぎ去ると、残りは15年だ。

 ところが、人生90年時代では、成人してから70年は生きる。人生50年時代と比べると、40年は長い。
で、花が咲く?時期も40年は長い。20歳から七十代半ばまでが、花が咲く?時期だ。それが過ぎ去ると、残りは15年だ。

 人生50年時代における「楽しい若い時代」は15年だが、単純計算で、人生90年時代では、「楽しい若い時代」は55年である。

 その55年間を形容するに、「楽しい」は問題ない。「楽しい時代」は55年と表現できる。
 しかし、「若い」の方はどうか。「若い時代」は55年と表現するのはどうかだ。

 ここで、津軽のシニアブロガーには緊張が走る。世の女性軍の目が注がれるからだ。

 結論は、「若い時代」は55年と表現できる、というか、表現する。と言って、フーッと一息つく。

 仮に55年と表現できないとすれば、どこで線を引くか、何年で線を引くか、これは難題である。という消極的な理由からではない。
 人生50年時代における「楽しい若い時代」は15年、20歳から三十代半ばまでは、人生90年時代では、20歳から七十代半ばまでに、相当する。というか、人生90年時代の20歳から七十代半ばまでは、人生50年時代の20歳から三十代半ばまでに相当し、「楽しい若い時代」なのである。

 人生50年時代における三十代半ばまで、イコール、人生90年時代における七十代半ばまで、となる。

 人生50年時代における三十代半ばは、人生90年時代における三十代半ばほどには若くなく、かなり熟しているとみることになる。

 人生90年時代における七十代半ばは、元気のない人は別にして、人生50年時代における三十代半ばに匹敵するくらいに若く熟しているということだろう。

 人生90年時代においては、くだんの歌は、どうなるか。

 花の命は 短くて 苦しきことの 多かりき  とは、もはや詠めない。少なくとも、

 花の命は 短くて 楽しきことの 多かりき  でなければならない。

 人生90年時代では、成人してから70年は生きる。20歳から七十代半ばまでが、花が咲く?時期だ。
 90年の生涯のうち、20年かけて成人し、その後、楽しい若い時代は55年、それが過ぎ去ると、残りは15年だ。
しかも、残りの15年だって楽しい若い時代と豪語するシニアがいても、なんも不思議はない。

 しかし、「花の命は 短くて」の部分は、そのままでいいのかどうか。世の女性軍は、「花の命は 長くて」と書き換えを要求するのかもしれない。

 花の命は 長くて 楽しきことの 多かりき  と。

 となれば、女性を花に例え、楽しい若い時代は長く、楽しきことの方が圧倒的に多い人生を歌ったものだということになる。めでたし、めでたし。で、果たしていいのだろうか。

 考えてみると、花の命は、やっぱり短い。

 一つに、毎年毎年咲く花の命は短い。一年中咲き誇る花はない。桜にしても、椿にしても、りんごの花にしても、花の命は短い。

 二つに、生涯をとらえた上での花の命も短い。世の女性を見ていれば、二十歳前後の一時期にアイドル然としていたものが、その後、アイドル然が見る影もなし、という人がいる。

 そんなに極端でなくても、生涯をとらえた上での花の命は、長いとは言えないのではないだろうか。
 女優の吉永小百合は、68歳の今でも、若くて美しい。しかし、吉永小百合自身の若い時にはかなわない。
吉永小百合を花に例えれば、花の命と表現できるのは、若い時だ。だから、やっぱり、花の命は、短い。

 吉永小百合を花に例えてすら、花の命は短いのだから、世の女性軍を花に例えても、もちろん、花の命は、短い。

 しかし、花の命は短いけれど、花を咲かせる植物としてとらえた場合、植物そのものが丈夫に生きる期間は長い。花が咲く時期は短いが、それが過ぎた後は光り輝く時期で、長い。

 先ほどの表現を微調整すれば、次のように表現できる。

 人生90年時代では、成人してから70年は生きる。20歳から七十代半ばまでのうち、花が咲く時期は短いが、光り輝く時期は長い。
 90年の生涯のうち、20年かけて成人し、その後、楽しい若い光り輝く時代は55年、それが過ぎ去ると、残りは15年だ。
しかも、残りの15年だって楽しい若い光り輝く時代と豪語するシニアは、なんぼでもいる。

したがって、人生90年時代を讃える歌は、次のとおりとなる。

 花の命は 短くて 光り輝き 楽しきことの 多かりき 
 


 
 今年もよろしくお願いいたします。

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