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平成の虚無僧一路の日記

祇王と仏御前と一休 

2010年09月15日 外部ブログ記事
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一休は25歳の時、琵琶法師が語る「平家物語」の一節
『祇王と仏御前』を聞いて、悟りを開いた。

「平清盛の寵愛を受けていた祇王は、年若い仏御前の
出現で、清盛の寵を失い捨てられる。そして山里に庵を
結び、毎日念仏を唱えて暮らしていると、そこへ仏御前が
訪ねてくる。仏御前は、明日はわが身と悟り、祇王に
詫びを入れて、祇王と共に仏に仕える身となるのだった。
京都の祇王寺には 祇王と妹と母、そして仏御前の4人の
像が祀られている。

さて、この話のどこに一休は涙し、悟ったのだろうか。
自分の母も帝から捨てられ、都を追われた身。祇王に母の
姿を重ねて泣いたのだろうか。どうももっと深い意味が
ありそうだ。

そもそも、祇王のライバルの名がなぜ「仏」なのか。

そこに注目してみると、この「平家物語」の主役は
祇王ではなく、若い仏御前なのだ。「娑婆の栄華は
夢の夢」と悟って訪ねてきた仏御前に祇王は「自分は
尼になって念仏を唱えてはいても、世を恨み、身の
不幸を嘆いていては極楽往生できなかった。あなたは
17歳の若さで、恨みも嘆きもなく、この世の穢土を厭い、
浄土を願って仏門にはいる覚悟を決めたとは、すごい
こと」と誉め讃えるのだ。

ライバルへの嫉妬や恨み心を引きずっている祇王に
とって、すべてを捨ててきた「仏御前」の方が格が
上となっているのだ。だから「仏御前」という名を
冠しているのである。

「平家物語」の前段で語られるこの「祇王と仏御前」の
話は、「平家物語」を貫く「諸行無常、盛者必衰」の
エッセンスだったのだ。

さて、一休は「祇王と仏」の話から何を悟ったのか。
この時、一休は師から「洞山三頓棒」の公案を与えられ
ていた。まさに「人はどこから来てどこへ行くのか」と
いう問いだ。父が天皇、母は楠木の血筋ゆえに都を
追われたという自分の出自。そして自分の将来に
一休は悩み苦しんでいた。20歳の時には瀬田川に
身を投げたこともあった。

そんな自分の出生にこだわる思いを断ち切ったのだ。

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