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「錦秋の小嵐山・中野もみじ山」 

2013年11月04日 ナビトモブログ記事
テーマ:人生

 千年の都、京都。その紅葉の名所といえば、嵐山である。例年、11月中旬に色づき始め、見ごろは、11月下旬まで続く。古来、人は、京都に日本美の原点を見出してきた。

 我が青森県の津軽にも嵐山がある。嵐山といっても、こちらは小がつく。八甲田山のうちの南部、つまり南八甲田のふもとに小嵐山・黒石温泉郷がある。
 小嵐山・黒石温泉郷は、400年以上の歴史を誇る温湯(ぬるゆ)温泉、板留温泉、ランプの宿として人気がある青荷温泉、落合温泉、大川原温泉という中野もみじ山周辺にある5つの温泉の総称である。

 小嵐山・黒石温泉郷が属する黒石市は、青森県のほぼ中央に位置しており、三方に津軽平野、東に八甲田連峰が連なり、十和田国立公園の西玄関口に当たる。
 自然豊かで、豊富な温泉に恵まれた古くからの城下町である。
 津軽地方は、江戸時代、津軽藩十万石の領地であるが、その支藩が黒石藩だ。

 昔、津軽の殿様、9代藩主の越中守寧親公(えっちゅうのかみやすちかこう)は、温湯に泊った際、近くにある中野山のもみじや滝の美しさにいたく感動された。
 その寧親公は、亨和2年(1802年)に京都から百余種のカエデの苗木を取り寄せ、移植されたのである。
以来、一帯は、中野もみじ山の名称で紅葉の名所となり、京都の嵐山に対し、小嵐山と呼ばれるようになった。

 
 1200年以上前に創建された中野神社の境内から続く中野もみじ山は、イロハモミジ、ヤマモミジ、オオモミジ、ウチワカエデが赤や黄に彩られ、全山が燃え立つにぎわいを見せる。そこにスギ、モミの緑が調和し、空の青と白い雲がある。
 中野川の渓流や不動の滝と相まって、小嵐山・中野もみじ山の人気は高い。10月中旬から11月上旬にかけての紅葉シーズンには、県内外から10万人もの観光客が訪れる。


 津軽寧親公が京都から百余種のカエデの苗木を取り寄せ、中野山に移植されたのは、亨和2年(1802年)である。その時から46年後の嘉永元年(1848年)10月の下旬、中野もみじ山の中野神社にお参りする一団があった。20人ほどの人員である。

 彼らは、中野もみじ山に近い温湯にある温泉宿・菊乃屋の関係者と村人たちであった。お参りする一団の中に旅装束の男と白犬がいた。

 旅装束の男は、日本海に面する鯵ヶ沢の廻船問屋・中津屋の主人である。中津屋は、一人でお伊勢参りに行く途中である。お伊勢参りの後は、京都まで足を延ばして商用を済ませ、福井の敦賀から北前船に乗って鯵ヶ沢に帰るという旅行程だ。

 津軽地方には、自分の生まれた年の干支ごとの守り本尊を信仰する風習があり、その守り本尊を「一代様」という。中津屋は、酉年生まれであり、酉年の守り本尊である不動明王を祀る津軽三不動の一つである中野神社にお参りに立ち寄ったわけだ。これで、旅装束の男のことは、分かった。

 それでは、旅装束の白犬は、なぜ一緒なのか。なぜ旅装束と分かるのか。それは、白犬の首には、「お伊勢参り 津軽黒石 わさお」と書かれた小さな木札とお金が入った財布が巻かれていることで分かる。

 「黒石のわさお」は、温湯温泉の温泉宿・菊乃屋の女将お節の飼い犬である。温湯温泉で一番の繁盛宿である菊乃屋の女将・お節は、伊勢神宮に祀られている天照大神が商売繁盛の守り神でもあることから、日頃から大いに信仰していた。自分でお伊勢参りをしたかったが、今でいうリウマチの持病があり、断念せざるを得なかった。

 そこへ、菊乃屋の上得意である鯵ヶ沢の廻船問屋・中津屋がお伊勢参りに行くという便りが舞い込んできた。渡りに船とは、このことだ。菊乃屋の女将お節は、中津屋に頼み込み、「黒石のわさお」を伊勢神宮まで連れて行ってもらうことにしたのだ。

 しかし、中津屋は、お伊勢参りの後は、京都まで足を延ばして商用を済ませ、福井の敦賀から北前船に乗って鯵ヶ沢に帰るという旅行程である。お節は、さすがに、お伊勢参りの後までも「黒石のわさお」を一緒にとは言えなかった。

 そこで、お節は、「黒石のわさお」に尋ねた。「わさお、お伊勢参りの帰りは、お前は一人で帰って来なければならないけれど、大丈夫か?」

 「黒石のわさお」は、大柄の丈夫で利口な秋田犬(あきたいぬ)だ。それなりに太っていて、白い毛がふさふさしている。デカイ顔の真ん中から少し下にダンゴ鼻があり、そのちょっと上につぶらな瞳が並んでいる。ダンゴ鼻の下には、秋田犬(あきたいぬ)らしく、笑った雰囲気で舌を見せている。
 
 「黒石のわさお」は、菊乃屋の女将お節の顔をじっと見つめた。そして、一言、「ワン」。

 こうして、嘉永元年(1848年)10月の下旬、中野もみじ山がイロハモミジ、ヤマモミジ、オオモミジ、ウチワカエデが赤や黄に彩られ、全山が燃え立つにぎわいを見せる中、「黒石のわさお」は、鯵ヶ沢の廻船問屋・中津屋に連れられ、お伊勢参りの旅に出た。


 3年後の嘉永4年(1851年)5月、「黒石のわさお」は、小嵐山・黒石温泉郷の温湯温泉の菊乃屋に帰還した。津軽黒石から、伊勢神宮までの往復で2400キロのお伊勢参りだった。

 「黒石のわさお」は、旅先で多くの人々の世話になりながら、とりわけ帰りは一人で、往復3年がかりでお伊勢参りを果して帰還したことになる。首には、伊勢神宮の御札が丁寧にくるまれて巻かれていた。

 「黒石のわさお」が菊乃屋の女将お節たちを伴って、中野もみじ山の中野神社にお参りし、お伊勢参りの報告に行ったのは、言うまでもない。


 千年の都、京都は、桓武天皇が794年(延暦13年)平安京に遷都したことに始まる。
 そして、小嵐山・中野もみじ山の中野神社は、平安京へ遷都の翌795年(延暦14年)に坂上田村麿が建立したと伝えられる 。
 ここに、京都と中野神社との歴史上の接点を見出すことができる。

 昔、津軽寧親公は、温湯に泊った際、近くにある中野山のもみじや滝の美しさにいたく感動され、亨和2年(1802年)に京都から百余種のカエデの苗木を取り寄せ、中野山に移植された。以来、一帯は、中野もみじ山の名称で紅葉の名所となり、京都の嵐山に対し、小嵐山と呼ばれるようになった。
 
 これは、京都と中野神社とにおける1200年以上前の歴史上の接点にかんがみるに、決して偶然ではない。中野神社が1000年の時を経て、京都からカエデを移植させたのである。
 
 今から200年以上前に、京都嵐山に対する小嵐山にならんとした中野もみじ山は、本年も今まさに「錦秋の小嵐山・中野もみじ山」である。



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