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平成の虚無僧一路の日記

容保の養子「喜徳」と実子「容大」について 

2013年08月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



会津藩主「松平容保」の養子「喜徳」と 実子「容大」について、
コメント欄に、詳しい情報をいただきましたので、掲載させて
いただきます。

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喜徳は「容大」が生まれたから、水戸に帰されたのでは
ありません。

明治6年 実父の旧水戸藩主「徳川斉昭」の22男である
松川藩知藩事「松平頼之」が死去したため、「喜徳」は
「容保」との養子縁組を解消し、実弟である「頼之」の
養子となって、その家督を相続したはずですが。

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いやぁ、徳川斉昭には驚きました。正室のほかに9人の側室があり、
男子22人、女子15人の計37人の子沢山。正室が生んだ
7男「慶喜」が 最期の将軍となります。そして第19男の「喜徳」が
弟(第22男)の養子になるとは・・・。

さらに、詳しく御教授いただきました。

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「容保」は14歳の時に(養父で会津藩主)「容敬」の5女{敏姫」と
結婚するが、「敏姫」は19歳で死去。

側室は田代孫兵衛の娘の「佐久」と、川村源兵衛の娘の「名賀」の
2人いた。 「佐久」は容保が京都守護職時代、身の周りの世話を
していた。その佐久との間に、長男の「容大」、次男の「健雄」、
5男の「英夫」、7男の「保男」を生む。

一方、「名賀」との間には、長女の美称、次女、3男、4男、
6男の「恒雄」が生まれる。


「容大」は 明治2年6月3日(新暦1869 年7月11日)生れですから、
「佐久」が身篭ったのは、旧暦で言うと7月25日前後。二本松が
陥落する前です。


「容保」は「敏姫」が亡くなった後、加賀「前田家」の14代藩主
「前田慶寧」の長女「禮姫」と婚約していました。
しかし、京都守護職、戊辰戦争と時局多難の折、婚儀は延期され、
明治4年(1871年)、婚約は解消されています。「禮姫」は「容保」と
逢うことは無く、後に「榊原政敬」に嫁いでいます。

「敏姫」の後「浦乃局(関山通子)」を正室に迎えたという話も
ありますが、公式記録にはありません。

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以上、コメントにいただいた文章は、もっと詳しいのですが、
略させていただきました。

ところで、小生「容保に隠し子が?」という記事を読んだ
記憶があるのですが・・・。その子は、桑名?にいて、
明治になって、小学校に上がり、「父は容保」と明かすと、
教師や仲間から「賊の子か」とさんざんいじめられた為、
以後 出自をひたすら隠してきた」という内容でした。
「葵の紋入りの短刀」を所持していたとのこと。
京都守護職在住の時の子でしょうかね。

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