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平成の虚無僧一路の日記

「虚無僧」の前身は「薦僧(こもそう)」 

2013年08月09日 外部ブログ記事
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「虚無僧」の発祥は、はっきりしません。その前身は
「薦蓆(こもむしろ)と尺八」を持って、諸国を往来し、
夜は寺の軒下などで、「薦蓆」を敷いて寝た「薦僧」と
言われます。

では、文献上では、「薦僧」はいつ頃まで遡れるので
しょうか。現存する史料の最古のものは、山口県下関市の
「市立長府博物館」に所蔵されている『大内氏壁書』です。


『大内氏壁書』というのは、室町時代に山口を支配して
いた大内氏の法令集で、大内持世・教弘・政弘・義興の
時代、1439年から1496年までの法令80編が収められています。

(ただし、当時の原本ではなく、桃山時代から江戸時代
初期に書き写されたものとのこと)

その「文明18年(1486)4月20日付禁制」で、

『第90条 薦僧・放下・猿引の事』として
 一、薦僧、放下、猿引事、可払 当所并近里事

と書かれてありました。

薦僧が 曲芸師の放下僧や 猿回しと同様の旅芸人として扱われ、
「当所(山口の城下)並びに近在の里でも払うべきこと」。
つまり「追い払え」といっているのです。

旅芸人としての扱いですから、薦僧は尺八を吹いて門付けした
のでしょう。一休が88歳で歿したのが 文明13年(1481年)ですから、
それから5年後の事です。

「薦僧」は 西国山口まで往来し、不審者として追い払われる
べき存在でしたから、一休の時代には すでに「薦僧」がいたと
考えられます。


ただし、所持しているのは「尺八と薦」だけで、「天蓋」や
「げ箱」「袈裟」は持っていません。江戸時代初期の
「洛中洛外図屏風」には 刀を差していたりしますので、
「薦僧」は、元は武士、牢人(浪人)が生計を得るための
一つの手段であって、乞食とは一線を画していたようです。

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