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平成の虚無僧一路の日記

「新内(しんない)」って知んない? 

2013年07月14日 外部ブログ記事
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「新内(しんない)」とは・・・・・


江戸時代の中頃、京都に「宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)」
という人がおりました。彼は始め、都太夫一中の「一中節(いっちゅうぶし)」
を語っておりました。しかし、「一中節」より もっと感情を
吐き出す、抑揚の激しいフシで語りたいと、独自の芸風を作り、
「豊後節」が出来ました。 一中節 → 豊後節

宮古路豊後掾は、京都を発って、一時 名古屋にも滞在。そこで、
実際にあった心中事件を題材に《睦月連理(むつまじきれんりの
たまつばき)》を作り、江戸へ下り、江戸でも大人気を得た。

しかし、よそものの豊後節が江戸の人気をさらったのですから
風当たりも強く、また「心中物」は「心中」をそそのかすから
よろしくないと、江戸幕府から「豊後節禁止」のお触れが出ます。


詮方なく豊後掾は京都へ帰る。弟子たちの中から名人上手が出、
「常盤津」「富本」「清元」などの分派が生まれ、その一つが
「富士松」=新内の元祖です。

富士松の一門から「敦賀太夫」が独立して「鶴賀若狭掾(つるが
わかさのじょう)」を名乗る。さらに「鶴賀新内」という人が
いて、これが無類の美声でした。

「鼻に抜ける声」にたまらない味があって、誰も彼もが この
「鶴賀新内」の芸風をまねたといいます。

「鶴賀新内」の「新内節」は 当初 歌舞伎にも登場していたが、
やがて「劇場」から離れ、遊郭の吉原を舞台に「流し」という
街頭芸になっていった。これが「新内流し」。

哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、
遊里の女性たちに大いに受け、隆盛を極めた。

「新内流し」とは、二人一組で「普通三味線」と「上調子の
三味線 (高い調子で撥も小さい)」の2丁の三味線で合奏し、
三味線を弾きながら高い声で歌い、街頭を流す。

呼ばれたら座敷に上がって、または戸口に立って芸を聞かせる。
流しをすることは、修行の一つでもあった。

ということで、越後の「ゴゼ」、津軽の「ぼうさま」、そして
虚無僧も「門付け」ではありんすが、「新内」だけ 裕福な
客層を相手でござる。芸の格か。

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